2015年6月29日月曜日

泉屋博古館「フランス絵画の贈り物ーとっておいた名画展」を観て

住友グループ各社が所蔵する絵画作品展示の第三弾です。今展は、
近代フランス絵画史上に名を残した画家の作品を展示します。

中国古銅器と鏡鑑の蒐集で有名な、住友家15代当主住友春翠は、西洋絵画
にも目を向け、現地でクロード・モネの二作品を購入、この2点は初めて
我が国に入ったモネの絵画だと言われます。またフランスに留学した画家
鹿子木孟郎を援助し、その見返りに当地での作品購入の手助けを依頼
しました。このようにして、住友家の近代フランス絵画のコレクションが始まった
といいます。

従って第一部「19世紀フランスアカデミズムと自然主義の台頭」では、鹿子木の
師ジャン=ポール・ローランスなどアカデミズムの画家の作品が、主要な位置を
占めています。アカデミズムの絵画は、確かな技術に裏打ちされて穏当、
いかにも西洋絵画という安定感があり、芸術の分野でも海外に門戸を開き
始めた日本にとって、受け入れやすいものであったと感じさせます。

第二部「印象派へ、印象派から」、現代に生きる私たちには最早見慣れた
タッチの絵画であっても、発表当時は革新的であった作品が展観されます。
モネの「モンソー公園」は、彼の作品らしく柔らかい光とおだやかさに満ちた
もので、心が癒される思いがします。このような絵画が論争の対象になったなど、
隔世の感がします。

第三部「フォービズムとエコール・ド・パリの時代」は、全体にそれぞれの特徴が
滲む、骨太の作品が並んでいると感じます。ルオー「一家の母」の線を刻印
しながら祈りを捧げるような描写、ヴラマンク「風景」の水彩であっても、彼らしい
荒々しさ、力強さを失わない表現に感銘を受けました。

第四部「フランスの現代作家たち」では、ビュッフェの作品が印象に残りました。
切り裂くような黒々とした鋭利な線が、孤独と緊張感と洗練を並列させます。
間違いなく、フランス絵画の系譜を引き継ぐ画家であると感じました。

泉屋博古館は、京都東山の麓に静かに佇む、こじんまりとした美術館で、
隠居所に紛れ込んで美術品を鑑賞する趣があります。今回の訪問では、折から
新緑が館に覆いかぶさるような風情で、一層情趣を誘われました。


2015年6月26日金曜日

母と暮らして

職住一体で、典型的な家族経営の小規模な店を営んでいる私たちは、
今も年老いた母と一緒に暮らしながら、日々の仕事を行っています。

母は父と力を合わせて長年この店を切り盛りしながら、私たち子供を育て、
養ってくれました。子供の側の立場からすれば、常に商売というものが
前提にあって、母にあまりかまってもらえなかったり、保護者参観などの
学校の行事にも滅多に出席してもらえなくて、さみしい思いをしたことも
多々ありましたが、私自身店に携わるようになって年月を経た今となっては、
親たちの商売への取り組みの真摯さが伝わって来るようにも感じます。

四年前に父が亡くなり、母は何か大きな荷を下ろしたように、次第に直接
仕事に関わることからも遠ざかり、店の諸々を気に掛けながらも、自分の
身の回りの世話を中心に時を過ごして来ましたが、近年は老いも目立ち
始め、昨秋脳梗塞を起こして約四か月間入院生活を送ってからは、膝が
不自由になって自宅で入浴が出来ず、入浴介護が実施されるデイケア
センターに通いながら、自宅兼仕事場で日々を過ごしています。

自宅にいる時は、私たちが働いているのを間近に見ていることで気持ちが
落ち着くらしく、店の奥まった片隅の指定席の椅子に座って、何やら自分の
こまごまとしたことをやっています。

最近は記憶も覚束なくなって来て、一緒にいると日々の飲み薬の管理や、
忘れ物探し、あるいは、急にとんちんかんな事を言ったり、行動をしたり、
驚くやら、はらはらさせられるやら、煩わしいことも随分と有りますが、
何かの拍子にふと、心を和ませてくれる瞬間も有ります。

それは母が美味しいものを食べた時の、欲得のない嬉しそうな顔であったり、
あるいは、私たちが仕事上のことで喧々諤々と議論し合っている時の、的は
外れているが、ついつい笑みがこぼれてしまう、母のアドバイスであったり
します。

そんな時、老人と一緒に暮らすことには、こんな美点もあるのだと、何だか
ホットさせられます。






2015年6月22日月曜日

「江戸川乱歩全集第一巻 屋根裏の散歩者」を読んで

日本の推理小説の代名詞と言えば、江戸川乱歩でしょう。しかし私は残念な
ことに、これまで彼の作品を読まずに来ました。それ故、どうせ初めて目を
通すならと、彼の著作活動の源流を探るべく、全集第一巻初期短編集を手に
しました。

冒頭の彼の処女作「二銭銅貨」は大正12年の発表ということですが、今の
時代にも決して色あせぬ素晴らしい作品です。まだ推理小説の主流が
輸入作品であった頃、乱歩が将来我が国の推理小説界の旗手となることを、
十分予見させるものであったでしょう。

理知的でスキのない簡潔な文章の運び、意表を突くトリックと綿密な暗号解読、
その上であっと驚くどんでん返しの後、そこはかとなく漂うユーモアが待って
いる。読者は二重三重に騙されたようで、読後一瞬狐につままれた思いが
して、文字通り推理小説の醍醐味を満喫することが出来ます。

またこの物語のきっかけとなる、紳士盗賊による電機工場の多額の給料用
準備金の窃盗事件は、私にすぐに昭和43年に実際に発生した、白バイ警官に
偽装した犯人が工場のボーナス資金を積んだ輸送車から、多額の現金を
奪い取った、いわゆる三億円強奪事件を思い起こさせます。

それほどに、乱歩の描き出す事件には細部に渉るリアリティーがあり、
あるいは犯罪者心理、被害者心理両面において、彼に深い人間洞察力が
あった故に、現実にも起こり得るような事件を作り出す能力を有していたの
ではないか、と推察されます。

乱歩の作品のもう一方の魅力である夢遊病、のぞき見、変身といった怪奇、
幻想趣味を扱う短編も、この作品集には収録されています。これらの
グロテスクな小説も、人間心理の奥底に潜む願望や恐れを、彼独特の詩的な
方法で具象化したものに他ならないでしょう。

彼の作品が長い時を経ても今なお読者を魅了するのは、彼が推理小説という
形を借りながら、人間心理の核心に触れようとする求道者であったからでは
ないか、と本書を読んで感じさせられました。

2015年6月19日金曜日

漱石「それから」における、代助にとっての再会後の平岡という存在

2015年6月19日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第五十六回)に、金を用立ててやってから初めて訪ねて来た三千代との
会話の中で、彼女の背後にかつての親友、夫の平岡の存在を感じた時の
代助の感慨を記する次の文章があります。

「三千代はあまり緩り出来そうな様子も見えなかった。まともに、代助の
方を見て、
 「貴方も相変らず呑気な事を仰しゃるのね」と窘めた。けれどもその
眼元には笑の影が泛んでいた。
 今まで三千代の陰に隠れてぼんやりしていた平岡の顔が、この時
明らかに代助の心の瞳に映った。代助は急に薄暗がりから物に襲われた
ような気がした。三千代はやはり、離れがたい黒い影を引き摺って歩いて
いる女であった。
 「平岡君はどうしました」とわざと何気なく聞いた。すると三千代の口元が
心持締って見えた。」

代助が平岡に対してこんな感情を抱いたのは、初めてのことではないで
しょうか?彼の平岡への思いは徐々に変わり始めている。殊に三千代との
関わりにおいて、それは好ましくないものとなり始めている。かつての代助、
三千代、平岡の三人の関係において、当時の代助にとって自身では意識
しなかったが、三千代の幸せこそが一番優先すべきことだったのでしょう。

東京に戻った平岡がこの体たらくでは、最早彼は三千代に相応しい夫では
ないと、代助は感じ始めているのではないでしょうか?それは代助が初めて、
彼女への自分の想いに気づくことにも、つながって行くのでしょう。

2015年6月17日水曜日

漱石「それから」に見る、三千代の天真爛漫さ

2015年6月17日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第五十四回)に、息を弾ませて代助の下を訪れた三千代のために、彼が
水を取りに行っている間に、彼女が代助がすでに使ったコップで、そこに
あったスズランを活けた大鉢の水を勝手に汲んで飲んでしまったことを
知って、彼が驚いて思わず言葉を発する、次の記述があります。

「 「何故あんなものを飲んだんですか」と代助は呆れて聞いた。
 
 「毒でないったって、もし二日も三日も経った水だったらどうするんです」

 代助は黙って椅子へ腰を卸した。果して詩のために鉢の水を呑んだのか、
または生理上の作用に促がされて飲んだのか、追窮する勇気も出なかった。
よし前者としたところで、詩を衒って、小説の真似なぞをした受売りの所作
とは認められなかったからである。そこで、ただ、
 「気分はもう好くなりましたか」と聞いた。 」

理知的で、自分の健康に人一倍留意する代助なら、とてもできっこない
三千代の行為でしょう。しかしおそらく彼女がするとなると、それほど
違和感のない挙動だったように推察されます。現に彼女は、その鉢の水が
汲みたてであることを確認しています。でも、自分の行為を思考で律する
代助には、とても思いもつかない行動なのです。

このエピソードで、三千代の性格が鮮やかに浮かび上がり、また彼女が
代助に随分気を許していることも、見て取れます。またうがった見方をすれば、
彼が自分にないものを持つ三千代に次第に惹かれて行く道筋も、暗示されて
いるように感じます。



 

2015年6月15日月曜日

京都国立近代美術館「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展」を観て

ユニークなネーミングの本展は、台湾の大手電子部品メーカー、ヤゲオ・
コーポレーションのCEO、ピエール・チェン氏が一代で築き上げたコレクション
から、現代美術の名品を展観するものです。

ネーミングの由来は本展の案内パンフレットによると、著名な個人コレクターの
蒐集品を通して、優れた現代美術作品が市場価格的、保険評価額的に
「世界の宝」であることを認識し、その前提の上で、鑑賞者一人一人に現代社会
におけるアートの意味について考えてもらおうというものです。

とかく現代美術は一般の美術好きにとっては、難解であったり親しみ易さに
欠けるように感じられて、敬遠されがちです。さらにオークションで、歴史的に
評価の定まった名画ならいざ知らず、現代美術家の作品が驚くほどの高額で
取引されているのを目にすると、益々縁遠い世界の出来事という思いに
囚われます。

さて、本展に展示された作品は著名なコレクターの蒐集品だけあって、優れた
作品が多いと感じられました。しかし作品それぞれの解説表示にしばしば登場
する個別の評価額を目にすると、美術的価値と市場価値の間で戸惑う自分を
感じました。つまり美術作品の価格は、一定以上の美的基準が前提であると
しても、最終的には市場の需給関係によって決定されるからです。

しかし経済的価値が存在するから、このような優れたコレクションが生まれるのも
また現実です。すなわち市場が活況を呈すれば、それだけ優れた現代美術作家、
作品が生まれる可能性も増すのです。

その事実は、文化芸術活動も高度資本主義経済の大きな渦に巻き込まれざるを
得ない現代社会の真実を示しているのでしょう。

しかし優れた現代美術家は、しばしば社会の矛盾を告発する批評眼を備え、その
作品に反映させます。自由な美術表現の場の存在は、社会の健全性の証明でも
あります。現代の社会が美術との関係性においても、一筋縄ではいかないことを
改めて感じさせられました。

2015年6月10日水曜日

山田風太郎著「人間臨終図巻①」を読んで

言わずと知れたことですが、人間は誰でもいつかは死にます。しかし私たちの
暮らす現代日本社会では、医療及び医薬品開発技術が著しく発達し、栄養価の
高い、豊富な食料の供給が可能となって、平均寿命が飛躍的に伸び、あるいは
宗教離れや人と人の絆が希薄になって来たことから、葬儀が簡略化される
などの理由により、個人の死がますます見えにくくなって来ています。

本書は古今東西の歴史に名を遺した著名人、私たちの記憶に残る社会を
騒がせた人物などの死の様子をのみ、死亡年齢の早い順に列挙する、大変
ユニークな本です。

そのユニークさに拍車をかけるのは、本書が取り上げる人物が偉人に限らず
犯罪者にも及ぶことで、この点に著者が稀代の大衆作家山田風太郎である
ことの面目躍如たるところがあり、この本が期せずして、いわゆる従来の偉人伝
のような社会の上澄みを掬うものではなく、扱う人物の死を巡る、広く庶民を含む
社会の気分を浮かび上がらせるものとなっていると、感じさせます。

さて①では死亡年齢の若い順ということで、十代で死んだ人々から四十九歳で
亡くなった人びとまでが取り上げられています。つまり現代の基準から見ると
夭折の部類に属する人々で、それだけにそれぞれの死は、病死、戦死、事故死、
自殺、刑死というような非業の死に当たります。

本書のページを繰ると、彼らの置かれた状況の悲劇性、心中の悲嘆、肉体的
苦痛に思わず胸の痛む場面もしばしば登場しますが、同時に死をもって彼らの
一生の形が完成したというような、一種の完結感の余韻が残ることもあります。

つまり人間は人生のある時期においてどれほど幸せであり、あるいはどの
時点においてどれほど不幸であっても、結局その一生の総体の幸、不幸は
完結してみないと分からないのです。同時に人の生はたとえ途中で中断される
ような結末を迎えても、その時点においてその人の一生は、見事に完結したと
いうことになるのでしょう。それこそ運命というものではないか?

長寿社会化に伴い、老後の不安が社会問題となって来ている昨今、最早昔日の
ごとく長寿こそが幸福というような単純な価値観はあり得ません。本書は
現代社会でこそ、死を相対化することが必要であるということを、読む者に
知らしめてくれる好著です。

2015年6月8日月曜日

漱石「それから」における、父の説法に対する代助の反発

2015年6月5日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第四十七回)に、父から呼ばれた代助が父と自分の道義心に対する解釈の
違いを考えるに当たり、その背景となる当時の時代の社会状況について
考察する、次の記述があります。

 「代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を
敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを、
近来急に膨張した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈
していた。またこれをこれら新旧両慾の衝突と見做していた。最後に、この
生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯と心得ていた。
 この二つの因数は、どこかで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な
日本が、欧洲の最強国と、財力において肩を較べる日の来るまでは、この
平衡は日本において得られないものと代助は信じていた。」

明治維新というものは、日本人に色々な面で著しい価値の転換をもたらした
のでしょう。儒教や仏教的なものの考え方の中に、欧米の近代資本主義的な
価値観が一気に流入して来たことも、日本人を大いに戸惑わせたに違い
ありません。

あれから幾年月が経過し、一応の経済発展を遂げた私たちの現代社会に
おいても、我々はそれが当たり前と感じながら、実は伝統的なものの考え方と
西洋合理主義的な価値観の間で、引き裂かれているように感じることが
有ります。

私自身道義と物質欲という観点においては、今さら消費に対する後ろめたさを
感じてしまうことも有ります。しかし昔ながらの道徳心で、現代社会を生きては
いけないのもまた現実です。そこに折り合いをつけることは、今なお課題で
あり続けているのでしょう。

2015年6月5日金曜日

漱石「それから」における、梅子の情けについて

2015年6月1日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第四十三回)に、一度は平岡のための借金をきっぱりと断った兄嫁の
梅子から改めて手紙を受け取って、代助が感じた事を記する次の文章が
あります。

 「手紙の中に巻き込めて、二百円の小切手が這入っていた。代助は、
しばらく、それを眺めているうちに、梅子に済まないような気がして来た。
この間の晩、帰りがけに、向から、じゃ御金は要らないのと聞いた。貸して
くれと切り込んで頼んだ時は、ああ手痛く跳ね付けて置きながら、いざ断念
して帰る段になると、かえって断った方から、掛念がって駄目を押して出た。
代助はそこに女性の美しさと弱さとを見た。そうしてその弱さに付け入る
勇気を失った。この美しい弱点を弄ぶに堪えなかったからである。ええ
要りません、どうかなるでしょうといって分れた。それを梅子は冷かな挨拶と
思ったに違ない。その冷かな言葉が、梅子の平生の思い切った動作の裏に、
どこにか引っ掛っていて、とうとうこの手紙になったのだろうと代助は判断
した。」

このような女性の細やかな感情は、現代社会では顧みられないかも知れ
ません。逆に女性の社会進出が目ざましい今日、ビジネスの現場では
かえって、優柔不断とも受け取られかねません。

しかし勿論程度の問題ではあるのですが、女性の余韻を残すような深い
情けや、男の後くされのないさっぱりとした気風などは、社会生活や
人間関係に何とはなしの潤いを与えていたようにも思われます。

最近世の中が妙にカサカサして無味乾燥に感じられるのは、そのような
ものが失われたことにもよるのではないかと、この文章を読んで改めて
考えさせられました。

2015年6月3日水曜日

龍池町つくり委員会 17

6月2日に、第35回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

まず、新住民を初め全学区民に配布することになった、龍池学区を成り立ちも
含め、より多くの住民に知ってもらうための案内冊子「わたしたちの町たついけ」の
見本が完成し、各委員に回覧しながら、委員長より説明がありました。
学区内各町の歴史や自治連合会活動の紹介等充実した内容になっていて、その
基本線のまま刷り上げて配布することに決定しました。

次に一部町内で現実の問題となっている、新しく出来上がるマンションの既存の
町内会への加入問題ついて話し合われました。というのは、ある町内がその
域内に出来るマンション住民の町内会への加入を拒否し、旧住民とマンション住民の
間に感情的なトラブルが発生しているということで、そのマンションの総会に連合会
より説明に赴き、マンション内で加入を希望する住民の中から班長を決めてもらって、
その町内とは別個に加入に向けた手続きをしてもらうことになったそうです。

自治連としては、域内に出来たマンションは大規模なもの以外は原則として、
既存の町内会に加入してもらうという方針で、そのためにも各町に町則の制定を
促し、町内会に属するそれぞれの住民の町内自治の意識を高めてもらうために、
これからも粘り強く活動を続けて行くことが確認されました。

またある委員より、学区の行事が高齢者向けに偏っているところがあり、もっと
若い人向けのものにも力を入れるべきではないかという意見が出て、多くの委員から
賛同の声が上がりました。この点も、新たな課題として浮かび上がったと言えます。

前回の委員会で提案された、ネパールの大震災被害支援の映画「オロ」上映会が
7月2日(木)に、マンガミュージアム内の連合会会議室で、午後7時より開催される
ことに決定しました。

2015年6月1日月曜日

後藤正治著「天人 深代惇郎と新聞の時代」を読んで

私はこの30年来朝日新聞の愛読者で、この新聞を選んだ理由の一つには
「天声人語」が掲載されていることがあります。

本書の主人公である深代惇郎は、約40年前のごく短い期間「天声人語」を
執筆しただけなので、私は残念ながら彼のコラムを新聞紙上で読んだことが
ありません。しかし私自身この名物コラムを読み続けて来ても、筆者にまでは
思いが至らない中にあって、わずか2年半の担当でこのコラムの名声を
高めた人物が、いかなる人であったのか強く関心を引かれ、この本を手に
しました。

まず「天声人語」が朝日新聞の看板コラムであるという性格上、著者は少なく
とも文章表現において、この新聞のイメージを体現する人物でなければ
ならないでしょう。本書を読み進めるうちに、深代惇郎が新聞文化華やか
なりし頃の朝日を、人間的にも表現者としても、一身にまとうような人物で
あったことが次第に明らかになって来ます。

海軍兵学校を経て、戦後東京大学法学部政治学科入学。朝日新聞社
入社後はロンドン、ニューヨーク特派員、本社社会部次長、論説委員(教育
問題担当)、ヨーロッパ総局長、再び論説委員となって「天声人語」を執筆。
46歳で急性骨髄性白血病で急き立てられるように生涯を閉じます。

新人の頃の警察回りは性に合いませんでしたが、持ち前の明晰さ、
人当たりの良さで上司、同僚に愛され、同業他社の同輩にも人脈を広げ、
面倒見の良さで後輩にも慕われ、海外経験を積んで文名を上げ、満を持して
「天声人語」の担当者になる。まるで絵に描いたような経歴です。

本書の文中に要所要所に挿入される彼の「天声人語」は、新聞人としての
矜持を保ちつつ、反骨心、当意即妙さ、ウイット、人間的温かさをバランス良く
配し、何より独特の詩情を醸す。本書中のコラムで見る限り、深代「天人」の
魅力は著者の卓越した見識と共に、知と情の絶妙の配合に因ると感じられ
ました。

ただ本書を読み終えて何か物足りなく感じたのは、多数の深代の関係者が
彼にまつわるエピソードを語り、本文中に配された彼の残した文章を読み
重ねてみても、一向に生身の人間としての彼の肉声が伝わってこないため
でしょう。著者後藤正治はあえて深代の内面には踏み込まず、外堀を埋める
ようにして、伝説のコラムニストと新聞の時代を浮かび上がらせようと
したのか?あるいは新聞記者というものは職業柄、内面を韜晦すべきもの
なのか?判断は付きかねますが、力作ゆえに私にはその点が少し残念でした。