2015年6月10日水曜日

山田風太郎著「人間臨終図巻①」を読んで

言わずと知れたことですが、人間は誰でもいつかは死にます。しかし私たちの
暮らす現代日本社会では、医療及び医薬品開発技術が著しく発達し、栄養価の
高い、豊富な食料の供給が可能となって、平均寿命が飛躍的に伸び、あるいは
宗教離れや人と人の絆が希薄になって来たことから、葬儀が簡略化される
などの理由により、個人の死がますます見えにくくなって来ています。

本書は古今東西の歴史に名を遺した著名人、私たちの記憶に残る社会を
騒がせた人物などの死の様子をのみ、死亡年齢の早い順に列挙する、大変
ユニークな本です。

そのユニークさに拍車をかけるのは、本書が取り上げる人物が偉人に限らず
犯罪者にも及ぶことで、この点に著者が稀代の大衆作家山田風太郎である
ことの面目躍如たるところがあり、この本が期せずして、いわゆる従来の偉人伝
のような社会の上澄みを掬うものではなく、扱う人物の死を巡る、広く庶民を含む
社会の気分を浮かび上がらせるものとなっていると、感じさせます。

さて①では死亡年齢の若い順ということで、十代で死んだ人々から四十九歳で
亡くなった人びとまでが取り上げられています。つまり現代の基準から見ると
夭折の部類に属する人々で、それだけにそれぞれの死は、病死、戦死、事故死、
自殺、刑死というような非業の死に当たります。

本書のページを繰ると、彼らの置かれた状況の悲劇性、心中の悲嘆、肉体的
苦痛に思わず胸の痛む場面もしばしば登場しますが、同時に死をもって彼らの
一生の形が完成したというような、一種の完結感の余韻が残ることもあります。

つまり人間は人生のある時期においてどれほど幸せであり、あるいはどの
時点においてどれほど不幸であっても、結局その一生の総体の幸、不幸は
完結してみないと分からないのです。同時に人の生はたとえ途中で中断される
ような結末を迎えても、その時点においてその人の一生は、見事に完結したと
いうことになるのでしょう。それこそ運命というものではないか?

長寿社会化に伴い、老後の不安が社会問題となって来ている昨今、最早昔日の
ごとく長寿こそが幸福というような単純な価値観はあり得ません。本書は
現代社会でこそ、死を相対化することが必要であるということを、読む者に
知らしめてくれる好著です。

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