2018年7月30日月曜日

「後藤正文の朝からロック 格言集を買ったわけ」を読んで

2018年7月25日付け朝日新聞朝刊、「後藤正文の朝からロック」では、「格言集を
買ったわけ」と題して、「ワンダー 君は太陽」という映画を観て感動したことを
きっかけに、登場人物のブラウン先生の格言をまとめた本を購入した経緯が
記されています。

私は残念ながら、「ワンダー 君は太陽」をまだ観ていません。また、お寺から
いただいたカレンダーに掲載された格言は折に触れて目にして、感銘を受ける
こともありますが、格言集というジャンルの本はいまだ買ったことがありません。

しかし今回の後藤のコラムの末尾に、最近涙もろくなったわけは自分でも分から
ないが、若い頃よりも言葉の力を信じるようになったと思う、と記されていることに
惹きつけられました。

私自身も若い頃には、無論私の言葉自体に重みも何もなかったのですが、言葉を
発することの重大性が分からず、今から考えると無責任なことを言い放ち、相手が
傷つくことも考慮せず、思い付きで発言をするようなところがあったと感じます。

そしてことの重大さに恥ずかしい思いをしたり、相手との関係が気まずくなるような
悲しい体験をして、次第に自分が発する言葉の重みを知って行ったのだと感じ
ます。

また自分自身の経験として言葉の重大さを肌で知ると、周りから発信される言葉
の重要さ、更には言葉というものが持つ普遍的な力にも気づかされて来るのでは
ないか、と思います。

人の思考や他者との交流の大きな部分が言葉を介してなされる以上、言葉の力
を信じることは、人生を豊穣にすると感じます。


2018年7月27日金曜日

京都国立近代美術館「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」を観て

かの高名な画家フィンセント・ファン・ゴッホというと、その波乱に満ちた劇的な生涯
も、作品の衰えぬ人気に大きく寄与していると思われます。しかし私の知る限り、
彼の絵画に対する浮世絵を始めとする日本絵画の影響について、中心に据えて
取り上げた展覧会は今までありませんでした。

本展はオランダのファン・ゴッホ美術館との共同企画として、ゴッホに対するジャポ
ニズムの影響、また彼の没後、彼の生き方や作品に憧れて、その亡骸の眠るパリ
近郊オーヴェールを訪れた日本人の足跡を通して、逆にゴッホの日本の芸術に
与えた影響を明らかにしようとする展覧会です。

まず本展に特徴的なのは、彼の絵画と彼が所持した、あるいは直接影響を受けた
浮世絵作品等を、一緒に並べて展示していることで、この展示方法によって、彼が
いかなる部分において日本美術に魅了され、それを研究し、その結果がいかに
彼の絵画作品に反映されたかを、理解することが出来ます。

このような観点から彼の作品を観ると、彼がパリに出てジャポニズムの洗礼を受け、
その作風を大きく変容させる中で、彼に固有の画法と浮世絵的な視点、色彩表現
が見事に融合して、彼の芸術が花開いたことが分かります。

勿論本邦初公開作品も含め、ゴッホの最盛期の絵画が数多く展示されているのも、
本展の大きな魅力で、一つ一つの作品に強い感動を伴って思わず見入ってしまい
ますが、彼の絵画が我が国でこれほど人気があるのも、一つは日本人の美意識
との親近性によるのではないかと、改めて気づかされました。

パリに滞在後彼は、理想郷として日本に重ね合わせた南仏アルルに向かいます
が、その後の悲劇的な人生や残した絵画にも、彼の日本的なものへの憧憬が
跡づけられています。ゴッホの夢見た日本を現実の日本人として振り返ることも、
本展のミステリアスな感興でした。

他方彼の没後多くの日本人芸術家、文化人が彼に魅入られ、その終焉の地まで
赴いた記録や、彼の絵画の影響の下、里見勝蔵や佐伯祐三が描いた日本人に
よる洋画の名作は、彼と日本の幸福な魂の交歓を感じさせずにはおきません。

人種や国境、地理的距離の壁を軽々と飛び越える、芸術の潜められた力を、まざ
まざと見せてくれる展覧会でした。

2018年7月25日水曜日

鷲田清一「折々のことば」1175を読んで

2018年7月22日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1175では
評論家三浦雅士の『孤独の発明』から、次のことばが取り上げられています。

  自己認識とは大なり小なり自分を騙すことな
  のだ。

とても刺激的なことばです。なぜなら、私たちの大多数が、生きていく上での拠り所
としているはずの自己認識が、自分の思い込みや自分の心を偽る思考の所産で
ある、と語られているのですから。

そして私は次に続くことば、ー商業とは、騙されるのを覚悟で「信用」しあうことー
に強く反応しました。

確かに商取引というものは、互いを信用し合う故に成り立つ行為です。特に初めて
の取引の場合、お客は、これから商品を購入する予定の店が間違いのない品物を
提供するのかどうか、確証はないけれど、その店をとりあえず信用して、品物を購入
することになります。

他方店の方も、そのお客が取引形態にもよりますが、代金の支払いなどという点で
信用のおける人かどうかという確証のないままに、商品を納めることになります。
その結果両者が十分に満足出来れば、良い商取引が成立したということにんるで
しょう。

特に私たちの店でも最近増えて来ている、直接に面識のないお客さまとのメールに
よるやり取りでの商品の販売は、お互いの顔が見えないだけに、大変気を使います。

いずれにしても、商売というものが信用によって成り立っているということを、上記の
ことばから、改めて肝に銘じました。


2018年7月23日月曜日

2018年7月20日の「天声人語」を読んで

2018年7月20日付け朝日新聞朝刊一面の「天声人語」では、今回の芥川賞に決定した
高橋弘希の小説「送り火」のストーリーにちなんで、全国的に広がる小中学校の廃校
について取り上げていますが、その中で、廃校後の学校跡地の活用例の一つとして、
恐らく私の居住する地域にある、旧龍池小学校の京都国際マンガミュージアムへの
転用について記されています。

旧京都市街にある私たちの地域の小学校は、番組小学校と呼ばれ、明治初期に全国
に先駆け、住民自治組織単位で、多くの費用を住民の寄付によって賄う形で設立され
た小学校で、それだけに地域住民の愛着は強いものがありました。

しかし地域内の少子化が進み、一つの学区の小学校では児童が十分に集まらなく
なって、1995年に東西の五つの小学校区が統合されて、京都市立御所南小学校が
設立されました。現在に至りこの小学校が人気を博し定員オーバーになったために、
統合学区内の東に位置する旧春日小学校跡に、今年度より御所東小学校が開校する
という結果にもなりましたが、この統合によって、私たちの龍池小学校は長い使命を
終えることとなったのです。

学校跡地をどのように活用するかについては検討が重ねられ、反対意見も根強くあり
ましたが、最終的に京都精華大学が運営する京都国際マンガミュージアムの受け入れ
を決定しました。

ミュージアム内には龍池学区の自治連合会が使用出来る部屋もあり、グラウンドも
区民運動会などの地域の行事の時には、ミュージアム側から利用の便宜を図って
いただいているので、ミュージアムと自治連は友好的な関係を保っています。

マンガミュージアムの入館者数も、日本のマンガ、アニメの国際的な人気という背景も
あって、海外からの来館者も含め増加しているようで、私たち地域住民としては、
地域の拠点の小学校がなくなったこと、地域環境の急激な変化に対し、住民自治と
いう観点から、ミュージアムという存在の利点も活かしながら、いかに対応していくかが、
これからの課題となっています。

2018年7月20日金曜日

是枝裕和監督作品「海街diary」を観て

「そして父になる」と前後しましたが、テレビ放映された是枝監督の「海街diary」を
録画で観ました。家族の絆をじっくりと描く、是枝監督らしい落ち着いた映画でした。

公開当時話題になったという、香田三姉妹、プラス異母妹が、綾瀬はるか、長澤
まさみ、夏帆、広瀬すずという豪華キャスト。しかし是枝監督は、人気女優の
表面的な華やかさをはぎ取り、それぞれの内面からにじみ出る本来の魅力を
見事に引き出す演出を心がけている、と感じました。

それが証拠に女優たちの演技がとても自然で、物語の核でもある本当の姉妹の
ような雰囲気が醸し出されていて、脇を固める同じく手練れの俳優陣とも相まって、
一見淡々としているけれど実は濃密な、家族の物語が画面に現出されています。

父には逃げられ、母にも捨てられてなお旧家を守る三姉妹、皆を束ねるのは
綾瀬演じる長女の幸ですが、三人の中で一番父親の記憶を有し、愛憎も深い
はずの彼女が、父と父を自分から奪った女性の忘れ形見である浅野すずを、
その家に引き入れると決断するところに、すずの容姿や挙措から発散される、
血のつながりというものの持つ吸引力を感じました。

一方すずは、孤独の中ですがりつく思いで三姉妹の下に身を寄せますが、三人
から父親を奪った母の子であるという後ろめたさから、本当の妹のように接して
くれる三人の優しさに触れても、最後のところでなかなか、心を開くことが出来
ません。

映画の終盤、鎌倉の海を望む高台で、幸は、「お父さんのバカ!」と叫び、すずは、
「お母さんのバカ!」と叫んだ時、二人は本当の家族としての姉妹になったのだ、
と確信しました。

海にたたずむ四姉妹のラストシーンは、仲の良い家族がそろう幸福と、同時に
人生においてはそのような満ち足りた時は長続きしないことを暗示しているようで、
いとおしく、切ない気持ちに囚われました。





2018年7月18日水曜日

「龍池ゆかた祭り2018」に参加して

2018年7月16日に本年の「龍池ゆかた祭り」が開催されました。

昨年は雨勝ちのあいにくのお天気でしたが、今年はかなりの晴天、ただし連日の
猛暑でどんどん気温が上がっているので、お客さんの出足が懸念されます。

今回は、町つくり委員会が主催ということになったので、準備にも力が入り、私も
午後3時にマンガミュージアムのグラウンドに集まり、テントの設営を始めました。

会場の設営準備には、マンガミュージアムの関係者はもちろん、龍池学区自治連
から消防団、体育振興会の有志に協力をいただきました。

実際の行事は、今回初めての趣向として、昨年も好評だった祇園篠笛倶楽部の
メンバー14名に、演奏しながら学区内を巡ってもらって、午後6時にグラウンドに
入場していただき、祭り気分を盛り上げます。

午後6時30分開式、京都外国語大学南教授の司会の下、情緒のある篠笛の演奏、
続いて祇園祭鷹山保存会理事長の挨拶、更に鷹山の囃子方の祇園囃子演奏が
行われました。

グラウンドの周りでは、マンガミュージアムによる飲食物の提供、似顔絵コーナー
が設けられ、鷹山グッズの販売も行われました。

他の協力者は、この日のために揃いの浴衣を新調した京都外大南ゼミの学生
さん11名が、篠笛の学区内での演奏と一緒に祭りの告知ビラの配布、グッズ販売
の手伝い、後かたずけに積極的に参加してくれ、京都御池中学有志の8名の生徒
さんが環境美化のボランティアをしてくれました。

会場に集まったお客さんも、グラウンドに敷くシートなどを持ち込んで、じっくりと
演奏を楽しみ、子供たちはグラウンドを駆け回って、祭りを楽しんでいました。
鷹山のお囃子の子供たちによる体験も好評でした。

午後8時20分に中谷委員長の挨拶で閉式、後かたずけを終えて、無事祭りは終了
しました。

2018年7月16日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1166を読んで

2018年7月13日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1166では
「カーサブルータス」オンライン版のインタビューから、翻訳家寺尾次郎の次のことばが
取り上げられています。

    そのわからなさを持ち帰って自分の中で時間
    をかけて咀嚼してくれたらなと思います。

私自身、映画館で外国映画を観る時には、断然吹き替え版ではなく、字幕がいいと
思っています。

なぜならまず、たとえセリフの全てを把握することが出来ないにしても、演じる俳優の
声、話し方を映像と共に捉えることが出来るので、映画全体の雰囲気を視聴覚一体と
して味わうことが出来る、と感じるからです。

これが家庭のテレビでの視聴だったら、必ずしも字幕にこだわりません。いや逆に
吹き替えの方がリラックスして観られて助かったりします。テレビで映画を観る時は、
あくまで気安さの意識が抜けないのかも知れません。

また、映画の字幕の楽しみは、これこそ上記のことばの内容に通じますが、セリフを
ぎりぎりまで凝縮した上で提示されている、言葉書きの意味を解釈したり、類推する
ところにあると思います。

その例として今私が思いつくのは、ある映画でこれからユーモラスな落ちが準備
されているワンシーン手前で、提示された字幕の文字に忍び込ましてあるヒントから、
私がその落ちを予想して思わず吹き出してしまいそうになった時、周りの観客は
まだ誰も気づいていないので、必死で笑いをこらえた時の可笑しさなどです。

いずれにしても、映画の字幕作成という作業は、とてもクリエイティブな仕事だと
感じます。

2018年7月13日金曜日

吉田健一著「昔話」講談社文芸文庫を読んで

私は正直、吉田健一についてほとんど予備知識もなく本書を読み始めたので、読み
だしてすぐに戸惑いを覚えました。

というのは、彼がこの国の文学史上重要な仕事を残したということは薄々知っていて、
本書の帯の見出しの、本作が最晩年の文明批評で入門書にして到達点、という
キャッチフレーズに惹かれて手にした訳ですが、実際に読んでみると句読点や改行
の大変少ない、立て板に水のような文章の羅列で、内容からも著者の博覧強記は
すぐに見て取れますが、随所に見られる権威主義的で断定調の物言いが引っ掛かり、
また一般に西欧文明を東洋の文明に対して辛口に評しているように感じさせるところ
が、気になったのです。

読みながらあるいは、敗戦後の打ちひしがれた日本人の心を鼓舞する目的で、編ま
れた文明批評ではないかという、うがった考えも浮かびました。

しかしその後本書の解説その他で、彼が外交官で後の首相吉田茂の子息で、父の
任地の関係で中国、フランス、イギリスに育ち、ケンブリッジ大学に学んだことを知り、
そして何より、私も若い日に読んで感動した、かのヴァレリー著「ドガに就いて」の
名翻訳者であることを知って、本書に対する感じ方も変わりました。

つまり、彼は西欧文明を内部から熟知した上で、あえて広範囲を万遍なく見渡す
相対的な視点で、本書を著しているのです。

そう考えると本書は、洋の東西を問わず文明と野蛮の相違は何か。その社会の中で
生きるある人物が、文明を担うひとかどの人間であるためには何が必要か。文明の
興亡を繰り返す人類の歴史の中で、過去と現在をつなぐ時間の意味するものは何か。
という壮大なテーマについて、独自の説得力を持って私たち読者に語り掛けて来る
のです。

本書を通読して私が特に興味を感じたのは、第七章のヨーロッパ文明と東洋文明を
比較するために前者の成り立ちについて語った部分で、吉田は現在に通じる
ヨーロッパは、ギリシア、ローマ文明の衰退後長く野蛮の状態が続き、従って
ヨーロッパ文明は、まだ比較的若い文明であると分析しています。

私たちは学校の世界史の授業で習った影響もあって、またヨーロッパの中で
キリスト教の信仰が、ローマ時代から連綿と受け継がれて来たという事実に鑑みても、
西欧の文明が、ギリシア、ローマの時代から一続きのものだと考え勝ちですが、この
ような歴史解釈に立つ時、ヨーロッパの新たな相貌が立ち上がって来て、その理解の
ために重要な示唆を与えられた思いがしました。

2018年7月11日水曜日

「松村圭一郎のフィールド手帳 異文化って何ですか?」を読んで

2018年7月3日付け朝日新聞朝刊、「松村圭一郎のフィールド手帳」では、「異文化って
何ですか?」と題して、文化人類学を学ぶ学生を例にとって、我々が往々に、他者との
コミュニケーションの困難さを、「文化」の違いなど後付けの理由に求め勝ちである
ことの、固定観念の弊害について語っています。

若い人々は大分変って来ていると思いますが、確かに私たちは、島国に暮らすという
ことを過剰に意識して、外国や異文化に対して必要以上の過敏な反応を示すのかも
知れません。

外国の流行や情報ををいち早く取り入れ、それでいて実際に外国人と交流するとなると、
どこか構えてしまって本音で付き合うことが出来ない。そのような島国根性的な意識は
今も残っていると感じます。

その逆に日本人同士は、黙っていても分かり合えるような思い込みがあって、このような
意識が、夫婦や家族も含めて、相手とのコミュニケーションをしばしば阻んでいるように
も、思われます。

日本人同士でも個人主義の浸透の結果、性別や世代、生活環境やものの考え方の
違いによって、価値観は多様化し、誰もがが容易にコミュニケーションを取り、合意を得る
ことが出来るとというのは、楽観的に過ぎるでしょう。

他方外国の習慣や文化、価値観については、私たちは、グローバル化や情報化社会の
進展によって、かつてよりも抵抗感少なく受け入れることが出来るかも知れません。

いずれにしても、人と人とは互いに違っていて当たり前、分かり合うためには常に、
コミュニケーションを取る努力を惜しまないことが必要なのでしょう。

2018年7月8日日曜日

大雨で京都国際マンガミュージアムに避難所開設準備

今年は関東地方で早々と梅雨明けが宣言されるなど、非常に期間の短い梅雨と
思われましたが、どっこいそうは問屋が下ろさず、西日本では台風7号が九州に
接近した7月3日以降、梅雨前線が強く刺激され各地で記録的な豪雨となりました。

私たちが住む京都市中京区の龍池学区は、市内を流れる鴨川の整備が進んで
以降、長い年月に渡り幸いにも大きな水害に見舞われずに来ましたが、今回の
豪雨では鴨川も危険水位を突破し、6日の午後3時ごろに、ついに中京区役所から
大雨洪水警報に伴う避難勧告が発せられました。

この勧告は、洪水、土砂崩れなどの危機が差し迫り、自宅にとどまることの危険性
が増した時に、高齢者、社会的弱者を優先して、避難所への避難を促すもので、
私たちの地域では、京都国際マンガミュージアム(旧龍池小学校跡)が避難所に
指定されており、私は学区の自主防災会会長を引き受けているので、中京区の
防災担当者から連絡があり、マンガミュージアムに向かいました。

ミュージアム内の自治連合会が使用する部屋で、既に集まっていただいていた
連合会長、自主防災会役員と相談の上、この学区では現状すぐに避難者が出る
可能性は少ないので、避難勧告解除まで各役員が2名づつ交代で部屋に留まり、
推移を見守ることになりました。

結果から言うと、午前3時ごろに中京区長より避難勧告解除の連絡があり、私たち
は無事お役御免で帰宅することになりました。その間、宵の口には5,6名の学区民
が避難所の様子を見に来られ、それに対応するのが役目といったところでした。

私たちの学区で避難勧告が出されるのは、私が知る限り初めてのことで、この地域
の住民は私も含め水害とは無縁と考えて来ましたが、報道等で各地の豪雨被害に
触れるにつけ、地球温暖化などの原因で気象状況も変化し、これからは認識を新た
にしなければならないのではないか、と今回の避難勧告発令で改めて感じました。



2018年7月6日金曜日

鷲田清一、山極寿一対談「都市と野生の思考」を読んで

哲学者で京都市立芸術大学学長、鷲田清一と霊長類学者で京都大学総長、
山極寿一の対談本です。各人の文章には、新聞掲載のエッセー等で親しみを
持っているので、迷わず手に取りました。

対談なので肩肘張らぬ物言いながら、各々がそれぞれの分野のみならず、
多方面の第一線で活躍する学者で、他方権威ある大学の顔として学内を束ね、
対外的な発言を担う人物ということもあり、話題は文化、芸術、教育と多岐に
渡り、その中には知的好奇心を刺激される発言も、随所に見受けられました。

私が特に興味を覚えたのは、この二人の対談ということもあって、霊長類の
生態から導き出される現代人の生活習慣、行動全般のルーツやあり方の考察
という部分で、-ゴリラから学ぶリーダーシップ-という項では、ゴリラの
グループのリーダーに求められる魅力は、他者を惹きつける魅力と、他者を
許容する魅力であると語り起こし、リーダーは群れの中のメス、子供といった
弱者に人気がなければ務まらず、グループを力で押さえつけるよりも、
コミュニケーション能力が必要であるといいます。

折しも私たち日本人のリーダー像は、高度経済成長期の中で、精力的で有無を
言わさず人を引っ張るのが理想とされるきらいがありましたが、今日の低成長期
においては、ゴリラのリーダーのように、後ろから見守りフォローする
リーダーシップの必要性が増すと結論付けます。

高齢化社会の到来によって、深刻になる老人問題については、老人の容姿が
若い時よりも相対的に親しみやすく変化するのは、孫と交流するためであり、
生活文化は祖父母によって孫世代に継承されるのが本来の姿で、グローバリ
ゼーションや情報化社会化の進行によって、価値観の急速に変化した現代社会
で、老人は成熟の意味をもう一度問い直し、若者との関係を再構築することの
必要性が語られます。

もう一点興味深かったのは、類人猿と人間との間の性と食に対するタブーの
感じ方の違いで、類人猿は、性は繁殖に係わる行為なので、ペアであるオス、
メスの関係性を前面に出しますが、食は個体維持のための行為なので隠す。
対して人間は、性を隠し、食を公にするというように関係が逆転しています。
これは人間が性に対して、種の維持より、個人の欲望の充足に重きを置くように
なったためだ、といいます。

先日赤坂憲雄著「性食考」を読んで、動物としての人間の性と食の関係の近さ
を実感したところなので、生物界の中で、人間という存在のイマジネーション能力
の高さという特異性を、改めて感じさせられた思いがしました。

2018年7月4日水曜日

龍池町つくり委員会 54

7月3日に、第72回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

冒頭の中谷委員長の、学区内のホテル、民泊等の建設問題報告では、御池通
衣棚角に建設予定のホテルは、事業主体がみずほ銀行系で、115室のホテルに
なるということ、一方釜座通押小路のホテル建設現場では、周辺に地盤沈下、
地面のひび割れが発生しているということで、委員会でもこれからの推移を見守って
行くことになりました。

いよいよ開催日が近づいて来た、7月16日の「龍池ゆかた祭」の実施詳細が、京都
国際マンガミュージアムの担当者、ミュージアム内の食堂の責任者の方の臨席の下、
寺村副委員長より報告され、タイムスケジュールは、スタッフは午後3時に準備の
ために集合、まずテント設営や机イスの配置を行い、午後4時から屋台の準備、
午後6時に篠笛が集合して午後6時25分入場、午後6時30分開式、主催者挨拶、
京都市長のコメント、午後6時45分篠笛演奏、夜店開店、午後7時篠笛終了、午後
7時30分より鷹山の祇園囃子演奏、午後8時20分閉式、同30分閉会、後片付け、清掃
をして午後9時終了、となっています。

テントはグラウンドに連合会のテントを2張用意し、1つはマンガミュージアムのグッズ
販売と似顔絵コーナー、もう1つは鷹山の授与品の販売、更に食堂の前にミュージアム
のテント2つを設置して、それぞれで食べ物、飲み物の販売を行います。雨天の場合は
AVホールで催しを行います。

昨年も好評だった篠笛は、お客さんを呼び込むために会場周辺部を演奏しながら練り
歩いてもらい、この日のために揃いの浴衣を新調した、京都外国語大学南ゼミの学生
さんたちには、一緒に付いて歩いてもらうことになりました。

今年度から町つくり委員会が主催することになるので、落ち度なく準備を進め、この祭り
を盛り上げたいと、考えています。

2018年7月2日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1149を読んで

2018年6月25日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1149では
装幀家菊池信義の『樹の花にて』から、次のことばが取り上げられています。

  技術ってやつも坂道と同じに上るだけではなしに、下ることもできなくては

SPレコードを古い蓄音機で聴くコンサートへ行っての、感想だそうです。

このことばを読んで私はすぐに、以前クレデンザという蓄音機で、フラメンコの
SPレコードを聴く集いに参加した時のことを、思い出しました。詳しくはその時の
ブログの記事に譲りますが、今でもすぐにその印象が鮮明に思い起こされるほど、
感銘深い体験だったのです。

というのは、音自体は最新の機器による再生ほど、クリヤーでも、雑音が混じり込ま
ない訳でもありませんが、その音には得も言われぬ温もりがあり、そして何より、
まるで目の前で実際に歌手が歌っているような、肉声に近い響きがあるのです。

もっと時代が下って、LPレコードがCDに取って代わられた時も、アナログのまろやか
な響きが、デジタルの無味乾燥な音に、主役の座を奪われたことを惜しむオーディオ
ファンが見受けられましたが、私たちは次第に、機械的な音を聴くことに慣らされて
行っているのかも、知れません。

そのような音環境が当たり前の私たちが、突然優れた蓄音機でSPレコードを聴くと、
そのまるで生身から発せられるような声色に、魅了されてしまうのでしょう。

レコードに限らず色々な分野で、現代人は技術の革新を追及しながら、より合理的で
便利なものを生み出し続けていますが、それが本当に以前のものよりも優れたもの
であるとは、一概には言えないのではないか?上記のことばは、そのことを実感を
込めて語っていると、感じさせられました。