2018年7月2日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1149を読んで

2018年6月25日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1149では
装幀家菊池信義の『樹の花にて』から、次のことばが取り上げられています。

  技術ってやつも坂道と同じに上るだけではなしに、下ることもできなくては

SPレコードを古い蓄音機で聴くコンサートへ行っての、感想だそうです。

このことばを読んで私はすぐに、以前クレデンザという蓄音機で、フラメンコの
SPレコードを聴く集いに参加した時のことを、思い出しました。詳しくはその時の
ブログの記事に譲りますが、今でもすぐにその印象が鮮明に思い起こされるほど、
感銘深い体験だったのです。

というのは、音自体は最新の機器による再生ほど、クリヤーでも、雑音が混じり込ま
ない訳でもありませんが、その音には得も言われぬ温もりがあり、そして何より、
まるで目の前で実際に歌手が歌っているような、肉声に近い響きがあるのです。

もっと時代が下って、LPレコードがCDに取って代わられた時も、アナログのまろやか
な響きが、デジタルの無味乾燥な音に、主役の座を奪われたことを惜しむオーディオ
ファンが見受けられましたが、私たちは次第に、機械的な音を聴くことに慣らされて
行っているのかも、知れません。

そのような音環境が当たり前の私たちが、突然優れた蓄音機でSPレコードを聴くと、
そのまるで生身から発せられるような声色に、魅了されてしまうのでしょう。

レコードに限らず色々な分野で、現代人は技術の革新を追及しながら、より合理的で
便利なものを生み出し続けていますが、それが本当に以前のものよりも優れたもの
であるとは、一概には言えないのではないか?上記のことばは、そのことを実感を
込めて語っていると、感じさせられました。

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