2015年2月24日火曜日

漱石「三四郎」の中の、肖像画に描かれる美禰子を見ての三四郎の感慨

2015年2月20日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第九十六回)に、原口さんが美禰子をモデルに肖像画を描く様子を
間近に見て、三四郎が抱いた感慨を記する次の文章があります。

「静なものに封じ込められた美禰子は全く動かない。団扇を翳して立った
姿そのままが既に画である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を
写しているのではない。不思議に奥行のある画から、精出して、その奥行
だけを落して、普通の画に美禰子を描き直しているのである。
にもかかわらず第二の美禰子は、この静さのうちに、次第と第一に
近づいて来る。三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に
触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が
画家の意識にさえ上らないほど従順しく経つに従って、第二の美禰子が
漸く追付いて来る。もう少しで双方がぴたりと出合って一つに収まるという
所で、時の流れが急に向を換えて永久の中に注いでしまう。」

芸術がまさに生まれつつある瞬間を見事に描写した、美しい文章であると
感じました。私はこの言葉を追っていて、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」
の中の、ゴーシュが動物たちに見守られて楽器を習得する過程の表現を、
すぐに思い浮かべました。

芸術に造詣が深い人、あるいは、芸術家と親交があってそのような現場を
目撃出来る人、さらには、その瞬間を心で受け止めることが出来るだけの
鋭敏な感受性を持ち合わせている人、そんな限られた人でなければ、
とてもこのような表現を生み出すことは出来ないでしょう。

漱石も、自らが傑出した小説家であるのみならず、他の芸術分野に対しても
並々ならぬ感性を有していたことが、この文章からうかがえると思いました。

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