2022年5月7日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2372では
政治社会学者・栗原彬の『〈やさしさ〉の闘い』から、次のことばが取り上げられています。
その「余計な」行為は、何と人間の密度に充
ちていることでしょう。
例え病に臥せっていても、ドアのところまで医者を出迎えようとした哲学者・カント、作家・
オーウェルが伝える、死刑台に向かう時にふと水たまりを避けた死刑囚、無駄で無意味な行為
に見えようが、ここに人間の尊厳の極致があると、この政治社会学者は言います。
なるほど、日常においては往々に、一部の隙もない合理的な身振りや行動が、その人の評価を
決めるという場面がありますが、人間の価値はそれだけではなく、いやむしろ何気ない場面、
あるいはその人が苦境に陥っている場合において、彼がとる行動にこそ真価が現れる、という
ことがあると思います。
それはそういう場面においては、その人の内面に蓄えられた核となる価値観が、現れ出て来る
ということではないでしょうか。そしてそのような時に現れる行為、行動は、得てして客観的
には無価値なものが多いと、感じます。
つまり、人間の核となる価値観は、表面的な合理性を纏うものではなく、そのようなものを
突き抜けて湧き出て来る道徳性であり、倫理的なものであると思うからです。そしてこれらの
普遍的な価値は、合理性などを飛び越えた高みに存在するものであると、思うからです。
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