2015年1月23日金曜日

漱石「三四郎」における、活字の威力の考察について

2015年1月20日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第七十四回)に、三四郎が蕎麦屋で小耳にはさむ高等学校の
生徒たちのうわさ話から、与次郎が発表した論文の反響をつぶさに
感じた時の感慨を記する、次の文章があります。

「三四郎は傍にいてなるほどと感心した。与次郎が「偉大なる暗闇」を
書くはずである。[文芸時評]の売れ高の少いのは当人の自白した通り
であるのに、麗々しく彼のいわゆる大論文を掲げて得意がるのは、
虚栄心の満足以外に何のためになるだろうと疑っていたが、これで
見ると活版の勢力はやはり大したものである。与次郎の主張する通り、
一言でも半句でもいわない方が損である。人の評判はこんな所から揚り、
またこんな所から落ちると思うと、筆を執るものの責任が恐ろしくなって、
三四郎は蕎麦屋を出た。」

今ならさしずめ、インターネット上の書き込みによって、その対象の
評判が急激に上がり下がりすることのようなものでしょうか?ことに
近ごろは、一つの非難の指摘があっという間に広がって、悪評が
満ち溢れるというような場面を、よく目にするように感じます。

何でも合理的なことを最善とする電脳社会のせちがらさ、そう言って
しまえば身も蓋もありませんが、もちろん間違ったことはいけないけれど、
もう少し寛容であっても良いような場合も、しばしば見受けられるように
思います。

特にネット上では、発信者が匿名であることにより、その発信内容が
放縦であったり、センセーショナルな嗜好に傾くことが多く見受けられる
ように感じます。

上記の「三四郎」の文章を読むと、漱石が小説家として、文章を公に
発表する人間の責任を、人一倍強く自覚していたことが分かる気が
します。

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