2016年3月8日火曜日

小栗康平監督 映画「FOUJITA」を観て

芸術の国フランスでエコール・ド・パリの画家として人気を博し、一転戦時下の
日本に帰国して、「戦争協力画」を描く中心的画家として絵筆を振るった、
藤田嗣治(レオナール・フジタ)のそれぞれの時代を描く、日仏合作映画です。

小栗康平監督の映画を観るのは、実に名作「泥の河」以来です。「泥の河」でも
監督は決して声高には語らず、主人公の少年を中心として、その時代を生きる
人々の情感の流れ出るままに任せるのですが、本作でも主人公藤田は、
寡黙に一種喧騒と狂気の時代に身をゆだねているようです。

私は以前から藤田に興味があり、回顧展を観たり、評伝を読んだりしている
ので、彼の生涯については、ある程度の予備知識を持っているつもりで
いました。

しかし本作では、時々の彼の心の有り様を描くことを極力抑制しているので、
主人公になかなか感情移入することが出来ませんでした。その戸惑いは終始
あって、結局中途半端な心の状態のまま映画は終わりました。

それでは監督の描きたかったものは何かと、その全編随所にちりばめられた
美しい映像から推し量ると、情景のコントラストがことさら強調されていることに
気づかされます。

パリの場末のうらぶれた、しかし情緒ある佇まいと、日本の農村地帯の山水画を
思わせる情景。パリの室内空間のシックで落ち着いた彩りと、日本の田舎家の
温かい闇に満たされた空間が、囲炉裏の火に仄かに浮かび上がる情景。

あるいは、パリの藤田主催のパーティーでの、仲間がとりどりに奇抜な仮装を
して騒ぎまわることによって生じる幻想的なシーンと、戦時下日本の農家に
寄宿する彼が幻視する、キツネの映像の登場するシーン。

つまりそれぞれの地で、彼は自分の絵が認められるためなら、絵の技量の
向上は言うに及ばず、その場に相応しい人間になり切るところがあり、それゆえ
文化環境がまったく異なる地でも、画家としての才能を開花させることが出来た
のではないか?

しかしその代償として、彼はアイデンティティーの喪失に苦悩することになります。
そんな藤田の姿が浮かび上がって来るように感じられます。

しかも彼を画家として、そのように振舞う決意を固めさせた原点は、彼が
クリュニー中世美術館で観た「貴婦人と一角獣」のタペストリーで、そのヨーロッパ
美術の圧倒的な存在感と完璧さが、彼をしてその地で身を立てるためには
それまでの自分の全てを捨て去らなければならないと、覚悟させたのだと感じ
ました。

少々うがった見方かもしれませんが、この映画の主人公にそのような姿を重ね
合わせました。

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