2014年12月14日日曜日

漱石「三四郎」における、三四郎が周囲の人びとに見る,都会人気質について

12月11日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第50回)に、東京の光源寺の前で物乞いをする乞食を評しての
広田先生、野々宮さん、美禰子、よし子の会話を聞いた三四郎の
感慨を記する、次の文章があります。

「三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が今日まで
養成した徳義上の観念を幾分か傷けられるような気がした。
けれども自分が乞食の前を通るとき、一銭も投げてやる料簡が
起らなかったのみならず、実をいえば、寧ろ不愉快な感じが
募った事実を反省して見ると、自分よりこれら四人の方が
かえって己に誠であると思い付いた。また彼らは己に誠であり
得るほどな広い天地の下に呼吸する都会人種であるという事を
悟った。」

これは漱石一流の諧謔でしょうか?四人の会話は、皮肉を込めた
傍観者の物言いです。彼らはこのような乞食を見慣れていて、
その物乞いの仕草が多分に演技性を帯びたものであることを
十分に承知した上で、このような会話を楽しんでいるのでしょうが、
そうではあっても、私はあからさま過ぎて好きではありません。

もしそれが都会人の気質なら、現代社会に向かうにつれて益々
高じることになる、高慢や疎外感、利己主義の先触れであるように
感じるからです。

それに対してまだ都会生活に慣れない三四郎は、この乞食と
遭遇したことによる、自らの心の葛藤と矛盾に素直に思い悩んで
いる。その方がずい分人間的だと感じるのは、私だけでしょうか?

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