2014年12月19日金曜日

漱石「三四郎」における、三四郎と美禰子が小川のほとりで空を眺める場面について

2014年12月17日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第53回)には、菊人形見物に疲れた美禰子と三四郎が小川のほとりに
出て、草の上に腰かけて空を眺めるシーンで、空の様子を描写する次の
表現があります。

「ただ単調に澄んでいたものの中に、色が幾通りも出来てきた。透き徹る
藍の地が消えるように次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なり
かかる。重なったものが溶けて流れ出す。どこで地が尽きて、どこで雲が
始まるか分からないほどに嬾い上を、心持黄な色がふうと一面に
かかっている。」

まるで詩の一節のような、美しく、リズム感のある文章です。小説の中の
漱石の文章は、ずい分巧みであることは私なりに認識していましたが、
現実を客観的に描写する場合が多いので、抽象的なものの表現を
試みる時、ここまで詩的になるとは思いませんでした。何か新しい発見を
したような、嬉しい心地がしました。

一方この一節を読んでいると、明治の文明開化の匂いがするように
感じられます。以前、日本の油絵の先駆者である司馬江漢、高橋由一
の展覧会を観に行ったことがあって、その解説に、江戸時代までの日本の
絵師には、空の色を描くという発想がなかった。従って司馬や高橋は
我が国において初めて空を発見した画家ともいえる、という趣旨の説明が
ありました。

漱石はイギリスに留学して、ターナーなどの風景画を鑑賞したといいます。
その見聞の成果は、彼の小説の中にこのような形で結実しているに違い
ありません。


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