2019年8月2日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1532を読んで

2019年7月26日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1532では
19世紀デンマークの哲学者・キェルケゴールの『死に至る病』から、次のことばが
取り上げられています。

  世間ではいつもどうでもいいことが一番問題
  にされる

哲学者は、人は常に自分と他人との差異に執着し、世間からどんな賞讃を得るか、
社会でどう重きをなすか、どの地位につくか、というような、世間の「符牒」で自らを
意識する。それは他の人々に自分が「騙りとられる」ことであり、自分を失うことで
ある、と述べたといいます。

確かに、私たちは社会的存在であるだけに、どうしても周囲や他者を意識してしま
いがちです。

例えば、あることに関して、自分なりの問題意識を抱いていたり、価値観を持って
いるつもりでも、周りで語られることや、社会で喧伝されることに、知らず知らずの
うちに影響されて、後で気が付けば自らの意見や気持ちが、一般的な考え方に
近づくいている、ということがあると感じます。

また上述のように、自分がいかなる存在であるかということを認識しようとする時
に、世間からどう見えるかということを、ついつい評価基準に選んでしまうという
ことも、よくあることです。

ではどうすれば、この呪縛から逃れることが出来るのか?周りの評価など意識
しない孤高の存在になる。しかし私たち凡人にはとても難しいでしょう。まだ私に
可能性があるのは、目の前の問題に目標を定めて、周りを見回す余裕がない
ほどに、その解決に最善を尽くすことのように、思われます。でもでもつい、よそ見
をしてしまいますが。

0 件のコメント:

コメントを投稿