2018年12月14日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1297を読んで

2018年11月25日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1297では
民衆思想史家・色川大吉の『明治精神史』から、次のことばが取り上げられています。

  人はほとんど自分に関するかぎり、その真の
  動機を知っていない。

一瞬戸惑いますが、そう言われればその通りだと思います。私がどうして三浦清商店
を継ぐことになったのかということも、元をただせばかくとした動機があったとはとても
思えません。

大学を卒業するに当たり、それなりの社会人としての夢を抱き、広告につて学ぶゼミ
に所属していたので広告に力を入れる化粧品会社に就職して、第一ハードルは超え
たと思ったら実際の仕事は思い描いていたものとは違って、やはり家業の方が楽
ぐらいの軽い気持ちで実家に戻りました。

今から考えると我ながらあきれるぐらいの軽い動機でした。でも家業に携わり使い走り
から始まり一から学んで、失敗や恥ずかしい思いも沢山経験しているうちに、次第に
自覚も生まれ店の存在理由などについても考えるようになって、父からバトンを受け
取った時には少なくとも店の名前に恥じない店主になろうと思いました。

果たしてそのような店主の役割を務められているかは、私にはまったく分かりません
が、だからこそ「何を為たか」以上に「いかに為たか」が重要だ、という言葉が琴線に
触れました。

これからも「何を為たか」なんておこがましいことは考えず、「いかに為べきか」、「いか
に為たか」に心を傾注していきたいと思います。

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