2018年12月3日月曜日

神里達博「月刊安心新聞✙ 自己責任論の思想 「集団内の役割」問う日本」を読んで

2018年11月16日付け朝日新聞朝刊「月刊安心新聞✙」では、「自己責任論の思想
「集団内の役割」問う日本」と題して、シリアで拘束されていた安田純平氏が3年4カ月
ぶりに解放されたことを巡って、日本で「自己責任論」が再燃したという事実に鑑みて、
筆者が我が国における「自由に伴う責任」と「立場と役割に伴う責任」について論じて
います。

つまり日本社会では、欧米のように「責任」が自由との関係で語られることはまれで、
不祥事を起こした会社の社長が「責任を全うする」と主張することに代表されるように、
「立場と役割」に則して責任が語られる場合が多い、と言うのです。

この論によると安田氏の事件の場合は、本人が勝手に危険な紛争地に赴き、拘束
されたのだから、日本政府が国民の税金を使って救出活動をする必要はない、という
ことになります。

即ち彼は日本国民の一員として、他の大多数の国民に対して無用な迷惑をかけては
ならない義務があるにも関わらず、それを破って自分の都合で紛争地帯に行ったの
だから、自ずと身の危険は承知のはずで、そのような人物を何も国が救出する必要は
ない、という論理です。

ここまで読んで来て私は、村社会の延長のように、集団内で与えられた役割という
枠組みでしか物事を捉えられない日本人の偏狭さのみならず、国際問題に目を向け
られない内向きさ、自分たちの卑近の利益のことしか考えられない近視眼性を思い
ました。

このような現象は、経済的には一定水準以上に豊かになっていても、思想としての
民主主義はいまだに定着していない、あるいは経済的にも疲弊が進んで来て、他人
の幸せを喜んでいる余裕がない、ということでしょうか?

いずれにしても、世知辛い世の中です。

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