2023年9月1日金曜日

小川哲著「地図と拳」を読んで

第168回直木賞受賞作です。日露戦争から第二次世界大戦終結まで、中国東北部で繰り広げられた、 満州国建国とその崩壊を巡る、知略と殺戮に満ちた歴史ロマン。スケールは極めて大きく、また ロシアのウクライナ侵攻という、現実の衝撃的な出来事もあって、国家とは何か、戦争とは何か を問う、問題小説でもあります。 また、この大作に読者を引き込む導入部が、とても秀逸であると感じました。例えば序章では、 日露戦争前夜ロシアの動向を探るため、中国東北部におけるロシアの勢力圏である満州に、軍の 密名を受けて侵入した高木は、同行する一見ひ弱そうな通訳細川を苦々しく感じていますが、 実際に二人がロシア軍に拘束された時に細川は、並外れた知略と交渉術を発揮して、高木を窮地 から救います。そして、その時に鍵になった高木のナイフは、物語全体の結末までも重要な役割を 果たし、高木と細川の縁は全編を通して、物語を牽引して行くのです。 あるいは第一章では、満州国に布教のために派遣されて来ていたロシア人宣教師クラスニコフは、 義和団の変で排外機運が急激に高まる中で、自分を襲った孫悟空を信仰によって救い、孫は後に 満州国繁栄の象徴となり、クラスニコフは、日本軍への中国民衆の抵抗運動の精神的支柱となり ます。このような巧みな導入部を得て、長大な物語は一気に進んで行きます。 上記のように、全編に通底する物語の駆動力にはかなり強いものを感じ、読者に長い物語を読み 通させる持久力を生み出していますし、途中に挟まる出来事の冷徹でリアルな描写には、戦争の 残酷さや傀儡国家の虚妄、日本軍の非道や被占領民の悲惨が、克明に描き出されていると感じま した。 しかし、現実に起こった歴史的事件を全体像として把握するには、あくまで断片的で、観念論に 偏っている思われて、空想領域を出ない小説と感じられました。 ここでもう一点付け加えたいのは、この小説は主要登場人物それぞれの視点から物語を語ること によって、公平な立場を堅持しながら、ストーリーを展開しようと努めているいると思われます が、読者である私は戦闘場面などで読んでいてついつい、日本軍に肩入れしようとしている自分 に気づくことがありました。過去の日本の愚行や過ちは肝に銘じているはずなのに、戦闘的な 場面に遭遇した時の人間心理の性には、考えさせられるところがありました。

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