2023年10月17日火曜日

大江健三郎著「懐かしい年への手紙」を読んで

先般なくなった、ノーベル文学賞受賞作家大江健三郎の1987年発行の長編小説です。私は一時大江作品を 愛読していたことがあり、本書はその時期に連なる作品ですが、長編と言うこともあって読むのを躊躇して いたところ、今日に至って彼の訃報をきっかけに、ようやく頁を開くことになった次第です。 しかし実際に読んでみて、改めて今読むにふさわしい作品と感じられたのは、本書が大江の自伝的小説だから です。読者は本書を読んで、現代日本文学を代表する作家の一人である彼の、生まれてからこの時期までの 来し方、文学的精神生活の遍歴を辿ることが出来ます。 ですが難渋さを辞さず、西洋の古典文学に依拠して自らの内面を掘り下げる、この作家らしい文学手法によ って生み出されたギー兄さんという主要登場人物と、作家の分身と思われるKちゃんの関係性が途中まで分から ず、モヤモヤしたものを感じながら読み進めていたのが、ある地点からふとギー兄さん自体も可能性としての 作家自身に他ならないことに気がつき、読了後読んだ本書の付録の冊子で、大江自らインタビューに答えて、 ギー兄さんは、出身地の森に残るという選択肢を選んだ場合の自分自身であるという言葉に触れて、一挙に 物語の全体像が立体感を持って立ち現れた感覚を味わいました。 それほどに見事な構想力を用いて生み出された小説ですが、作家の幼少期から本書執筆までの時期に特に大き な事件として起こり、この物語ではギー兄さんの受難として語られるものは4件、つまり第二次世界大戦中地方 の若者の有力者として、ギー兄さんが徴兵された夫を郷里で待つ妻を、千里眼を用いて慰謝する役目を担い、 敗戦後夫たちの復員に伴い、その欺瞞性をあばかれ辱めを受ける場面、あるいは、Kちゃんが海外滞在中のため に一人取り残された彼の妻が気がかりで訪れた東京で、ギー兄さんが安保闘争のデモに巻き込まれ、頭部に 重い損傷を負う場面、更には、森に地元の若者たちと理想郷を築くことを志しながら、パートナーの女性の 変節に会いギー兄さんが彼女を死に至らしめ、強姦して投獄される場面、最後には、出獄後自らのための美しい 村を作ろうとして、ギー兄さんが自分の所有地に堤防ダム建設を進め、下流域の反対派住民に殺害される場面 です。 すなわち、作家の精神的な部分において、このようなことが起こりえたかもしれないことを体現するギー兄さん という存在を通して、大江は不器用な形であれ、世界の安寧と魂の救済を希求しているように思われます。

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