朝日新聞6月24日(火)付け、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載、
先生の遺書(46)に、「おれが死んだら」という言葉をめぐって、
死をまじかにしての当人の態度と周りの反応について、考え
させられるところがありました。
腎臓を患い、死病にかかっていることを自覚している私の父が、
「おれが死んだら、どうか御母さんを大事にして遣ってくれ」と
言った時、私は東京を立つ直前、先生が奥さんに向かって
繰り返した、「おれが死んだら」という言葉を思い返して、
感懐にふけります。
私にとっては、この時点では、先生の死は悪い冗談で、それに
反して、父の死は現実味を帯びています。その言葉に対する
それぞれの周りの反応も、先生の奥さんは縁起でもないと耳を
ふさぎ、私は口の先では何とか父を紛らせようとします。
実際には、先生は体は頑健ですが、心は死に取りつかれており、
私の父は体は死に近づいていますが、心はもっと生きたいと
願っています。
つまり、先生と父の「おれが死んだら」は、私が気付かないだけで、
結局は死と生がせめぎ合う中で、同じ心情から発せられた切実な
言葉なのです。
漱石はこれらの込み入った表現を駆使して、人の死の理不尽を
巧みに書き表していると感じました。
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