2014年6月11日水曜日

漱石の死を巡る近代の憂うつと、現代の憂うつ

朝日新聞の夏目漱石「こころ」100年ぶり連載6月10日付け、
先生の遺書(36)に、”私”が腎臓病を患う父が待つ郷里に
帰省するに際して、二、三日前”先生”の宅に晩餐に呼ばれた
時の、「どちらが先へ死ぬだろう」という先生と奥さんの間に
起こった疑問を思い起こして、「(死に近づきつつある父を
国元に控えながら、この私がどうする事も出来ないように)
私は人間を果敢ないものに観じた。人間のどうする事も
出来ない持って生まれた軽薄を、果敢ないものに観じた。」
という部分があります。

この漱石の表現は、自身の心の働きを客観的に捉えるという
意味において、確かに人間に内在する”近代の憂うつ”を
示しているでしょう。

この文章は、死というものがいつ訪れるか分からないもので、
なおかつ、実際には突然にやってくるということを、もしその
兆候がきざしたら、人間の力では押しとどめようがないと
いうことを、前提に語られているのでしょう。

一方、私たちを取り巻く現代の社会に、この状況をおいてみると、
確かに、難病や突然死による予期せぬ死の訪れという不幸も
今もって存在しますが、医療の目覚ましい発達によって、
平均寿命は飛躍的に伸び、また場合によっては延命治療と
いうものも可能になってきました。

その結果、寿命と物理的な身体の衰えに手の尽くしようのない
ずれが生じるということも、まま見受けられるようになってきたと
思われます。

これはさしずめ、死を巡る”現代の憂うつ”ということでしょうか。
そんなことを、ふと考えました。

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