2018年10月15日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1252を読んで

2018年10月10日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1252では
先日亡くなった個性豊かな名優・樹木希林の最後の1年を撮ったテレビ番組を観て、
ライター・島崎今日子が3日付けの朝刊のコラム「キュー」に記した、次のことばが
取り上げられています。

  人は生きていたように死んでいく。

樹木希林というと、若い頃から老け役を演じ、歳を重ねては存在感のある老女に
扮して、そのある意味での変わりのなさが、ぶれない女優というイメージを形作って
いた、と感じます。

さて私も最近は、自分がどのように死んでいくのだろうと考えることがあります。中年
に至るまでは、身近に人の衰えから死までを見守ったことがなかったので、死という
ものが実感を伴って心に浮かんでくることがありませんでした。

しかし初めて父の最後を看取り、死というものをある程度具体的にイメージ出来る
ようになり、また自分自身も還暦を過ぎて人生の終盤を意識するようになって、自分
の死ということが気になり出したのだと思います。

確かに父の最後の姿などを見ていると、人は生きて来たことの延長線上に死を迎え
ると感じられる部分がありました。例えば父の死の原因は、長年の生活習慣が導き
出した、いわゆる生活習慣病でしたし、自営業を営んでいたことから、死の間際まで
私たちの店の将来を気にかけていました。

私が今いくら考えても、私自身の死に様はまだ明確な像を結びませんが、良く生きる
ことが即ち良く死ぬことだと思い定めて、これからの人生を生きていく上での目標に
したい、とは思っています。

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