2020年9月7日月曜日

「伊藤亜紗の利他事始め 友人の咳いたわれるか」を読んで

2020年8月27日付け朝日新聞朝刊、「伊藤亜紗の利他事始め」では、「友人の咳いたわれるか」と題して、従来は 例え風邪をうつされても平気な関係が友人間にはあったのに、この新型コロナウイルスの流行によって、友人から でも、さすがにこのウイルス感染を避けたいような気風が生まれているのではないかと、問題提起しています。 確かに新型コロナウイルスは、未知の感染症として私たちを脅かして来ましたし、我々はこの感染症に非常に 敏感になっており、例え友人といえどもうつされたくないのが本音でしょう。 あるいは友人であればこそ、自分に発症の兆候があれば、その人には近づかないようにしようとするのが、自然な 感情だと思います。 つまり、コロナウイルスという交友関係を維持する上での新しい障壁が生まれて、私たちはそのことを念頭に置い て、互いに配慮しながら関係を持つようにしなければならない、ということなのでしょう。 またそれに関連して筆者は、社会学者エリアスが「不快感」が文明化にとって、重要な役割を果たしたと指摘して いることを、挙げています。 つまり、「個人」という概念が生まれて、自他の区別のないような行為を不快に感じ、他人との関係に距離を置く ようになったことが、近代化につながった、ということのようです。 このことの延長線上に考えると、コロナ禍は私たちの人間関係をますます希薄にすることになる、のかも知れま せん。 しかし私は、今日のコロナ感染症予防のための、現実のソーシャルディスタンスを求められる生活様式が、我々に 人と人とのぬくもりのある交流を、かえって渇望させていることを鑑みても、私たちはこの感染症のある程度の 終息後、これまで以上に相手に配慮した人間関係を、築くようになるのではないかと、感じています。 果たしてこれは、楽観的な観測でしょうか?

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