2016年1月29日金曜日

三浦綾子著「塩狩峠」を読んで

久々に真っ向からの直球勝負の小説を読みました。そして期待通りの深い
感動を得ました。心の隅では、今さらながらという思いもなくはなかったのですが、
いやはやさすがでした。

三浦綾子の他の小説は読んだことがなく、浅学にしてその名前ぐらいしか知り
ませんでしたので、あくまで推測の域を出ませんが、この小説が当初、キリスト教
信徒向けの雑誌に連載することを目的として執筆されたということが、本作を貫く
宗教的信念に絶対的な光輝を与えているに違いないと、感じました。

しかしそれにしても、特定の価値観の人々を対象にして書かれた小説が、結果と
して広く世間に大きな感動と共感を呼んだということは、三浦綾子という人の
ゆるぎない信仰観と無私な人柄、そして自分の思いを珠玉の名作に結実させる
たぐいまれな筆力によるところが大きかったと感じました。そういう意味でも特異な
条件が揃い、初めて成り立った小説と感じさせられました。

さて本作は母親のキリスト教信仰を理由に、幼少期を母から引き離されて育った
主人公信夫が、以降の人生の様々な出来事を通して、次第にキリスト教への
不信を解き、最後はゆるぎない信仰心を獲得して、塩狩峠で逆走する客車を
身を挺して停車させることによって、結果として自らの命を犠牲にして、多くの
乗客の命を救うという物語です。

このキリスト教信仰に絶大な信を置く小説に奥行きを与えているのは、私のような
ごく一般的な人間の尺度からすれば、驚くほど高潔な心の持ち主の信夫が、
それでも肉欲や猜疑心に囚われることのある弱い面を持っていることで、最終の
場面での自己犠牲という結果も絶対的な結論ではなく、内面の問いかけの中で
生まれたということです。著者は血の通う生身の人間の中にキリスト教信仰を
描こうとしたと、感じました。

さて執筆後50年余りが経過したこの小説が、現代の読者に語りかけるものは何で
しょうか?先進国といわれる国々の中では、価値観の多様化、情報の氾濫によって
宗教心は希薄になり、利己的で、合理的なものの考え方が幅を利かせています。
しかし私たちが今なおこのような小説に心を動かされるということは、我々の心の
奥深くには、心を謙虚にして他と向き合う姿勢や、自らを顧みる以上に他を思いやる
という人間の美点が、生き続けているのではないでしょうか?

心の中のそんな部分を時として省みるためにも、このような小説を読んでみる
意味があると、はなはだ生意気ながら感じました。

0 件のコメント:

コメントを投稿