2026年8月26日水曜日
武田百合子著「遊覧日記」を読んで
武田百合子は、小説家武田泰淳の妻だった人で、彼の死後日記文学作品の出版で評価を得て、随筆家と
して活躍したそうです。私はそもそも、武田泰淳の小説を読んだことがなく、当然百合子の名も知りま
せんでしたが、彼女の出世作「富士日記」の評判をどこからか聞いて、まず本書を手に取りました。
読んでみて、その独特のとりとめの無さ、綿でくるむようなフワッとした感触が、心地よく感じられま
した。しかし気楽な物見遊山、世間語りというのでもなく、作者には肩を張らず本質を見抜く、観察眼
があります。その結果この日記文学は、人間の日々の営みに潜む、機微哀歓を滋味深くあぶり出してい
ます。
まず作者は、まだ娘が小さかった頃、家族で暮らしていた夫の実家の寺に、会津から奉公に来ていた
女中の若い女性に習って、あちこちを遊覧すると宣言します。その女性は、休みの日に誰も知り合いの
いない都会で、好奇心の赴くまま色々なものを見て回り、場の雰囲気になじんで目一杯満喫して帰って
きたそうです。
作者もその振る舞いを理想として、無垢な心で貪欲にあちこちを見て回り、感じたことをありのままに
綴ろうというのです。正にそのようなスタンスで、訪問先の情景が記されてゆきます。現在からすると
一昔前なので、各所の風物も興味深いですが、特に彼女が訪れた先で接する人の描写が素晴らしいと感
じました。
例えば上野東照宮の章で、東照宮ぼたん祭りを訪れて牡丹を観賞していた彼女が、句会を催している
グループに遭遇し、その中の和服の女性が、集合の合図があって急ぐ余りに、石畳につまずき倒れる
場面。着物をかばうために頭から突っ込み、衣裳が直接地面につかないように、頭で身体を支えてじた
ばたしながらも力尽きて、石畳の上に平たくなる滑稽な描写。その後に続く、何事も無かったように立
ち上がり、微笑んで集合場所に向かう様子は、その女性の羞恥の入り交じった矜持を感じさせます。
あるいは、京都で作者の女学生の頃の恩師と会う場面。事情は分かりませんが、彼女とその娘は、夫の
墓参に京都を訪れる度に、恩師に会い、食事をごちそうになるという。先生に高価なものをおごらせて
はならないと気遣いながらも、ついつい食べたいものを口に出してしまい、先生に余分の出費をさせて
しまいます。そのやり取り、関係性が、両者の絆を感じさせます。
本書の写真は、作者の娘武田花が担っていて、文章と合わさって、独特の雰囲気を醸し出しています。
2026年8月20日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3610を読んで
2026年4月3日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3610では
編集者白石政明の『ケアと編集』から、次の言葉が取り上げられています。
「あれかこれか」という閉じられた問題
設定そのものに穴を開けて、問いの外に
出る力をその人に差し出そうとしている
例えば患者は、病苦のみならず、なぜ私に不幸が降りかかるのかという「答えのない問い」
にも苦しんでいるという。それを「素手でガッシと」受け止める看護師は、悲観的なこと
でも敢えて明るく伝えるとか、元気に振る舞うとか、矛盾した受け答えになる。苦しみの
受け止め方を変えるには、問いの変換が必要という意味で、上記の言葉が語られている
ようです。
これは大変難しい問題です。理不尽な苦しみに囚われている人を如何に勇気づけ、希望を
もたらすことが出来るか?私の脳裏には、オー・ヘンリーの短編「最後の一葉」が想い
浮かびました。
病気によって生きる希望を失った女性は、ちょうど晩秋の頃、窓から見える壁に伝う植物
の最後の一葉が散ったら、自分も死ぬと考えます。そのことを知った友人の老画家が、嵐
の最中にその壁に一枚の葉を描いて、女性に生きる希望を取り戻させ、自らは嵐に打たれ
て体力を失い、死を迎えるという話です。
ケアをする側も、自らが身体を壊しては元も子もありませんが、「問いの外に出る力」を
悲嘆に暮れる看護される立場の人にもたらすという意味で、「最後の一葉」には象徴的な
意味があると感じます。
2026年8月12日水曜日
2026年8月度「龍池町つくり委員会」開催
8月11日に、第8回「龍池町つくり委員会」が開催されました。
今年龍池学区が当番年である、時代祭の行列について、学区民に準備からの詳細を知ってもらう催しを
開催するかどうかについて、委員会で検討しました。委員長の私が提案したのですが、町費からの積み
立て金によって、原則9年に一回(今回はコロナ禍や順延によって12年ぶり)運営されるこの行事の
内容を、学区民に知ってもらうことには意義があると考え、提案した次第です。
私は、9月24日、25日当たりの午後6時もしくは午後7時からⅠ時間程度の予定で、当学区の行列の担当
である装束店の社長様による説明と、平安神宮からお借りすることが出来れば行列のビデオの鑑賞、
座談会方式による、以前行列に参加された方の体験談披露という内容で、この催しを提起しましたが、
各委員からは、催事に携わって頂く方との予定調整を行い、実際の時代祭の日時も迫っているので、
行列を担う学区の関係者の承諾を得られるなら、この催しを実施してみよいという結論を得ました。
8月29日に開催される「龍池えむえむ夏祭り」については、子供向けのゲームを担当するスタッフが
不足気味なので、今回委員会に参加されている南先生グループのメンバーに、重ねてお手伝いをお願い
しました。現在はその内1名の方の参加が確定したところですが、更なるメンバーの協力を期待してい
ます。
南先生グループからの報告として、10月18日(日)午前10時から12時の予定で、「アサギマダラの観察
&フジバカマ植え付け体験会」を開催するというお話がありました。これは、龍池学区の大原郊外学舎
を利用して、既に植え付けられているフジバカマが開花し、蝶が訪れると思われる同日に、蝶の観察と
翌年向けに新たなフジバカマの株を植えるという催しで、対象は当学区限定10組のファミリー、参加費
は一家族1000円というものです。8月中にチラシ、ポスターを制作してもらって、各町に配布、経費に
ついては町つくり委員会で応分を負担するということになりました。
2026年8月5日水曜日
「鷲田清一折々のことば」3602を読んで
2026年3月24日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3602では
美学者・会社員難波優輝の同紙の連載「にじいろの議」への寄稿(3月11日夕刊)から、次の言葉が
取り上げられています。
私たちは、技術を前提とするのではなく、
技術の意味を問わなければならない。
私たちは今尚、技術の発展への信仰に囚われているのではないか?新しい科学技術、医療技術が開発
されればもてはやし、それで社会が今よりも良くなると信じ込む。
確かに、技術の発展によって生活の質が向上したり、社会活動が効率的になったことは多々あるで
しょう。でもそれが万能薬であるかと言えば、違うのでは無いか?
例えば、SNSの発達は、遠く隔たる多くの人が一瞬のうちにつながり、また親しい人とも直接に会わ
なくても、逐一意思の伝達を行うことを可能にする。でもそこにはフェイクや扇動のリスクがあり、
親密な個人間の関係においても、SNSにかえって縛られたり、いじめの原因になったりするリスクが
ある。
医療技術の発達は、人間の寿命を飛躍的に伸ばし、我々の死生観を根本的に変えたように思われる
けれど、その反面、生命の尊厳への感覚を鈍らせ、ひいては倫理観の欠如や、生きる目的を見失う
ような傾向を生み出しているように感じられる。
今正に、AIが行く末の人間社会に絶大な影響力を行使し、人間を支配するようになる未来が危惧さ
ているけれども、技術の止めどない発展を前提にするのでは無く、長いスタンスでの真に人間の利益
になる技術を賢明に選択して、それのみを発展させるシステムを構築すべきではないか?そのような
思いを強くするこの頃です。
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