2019年12月20日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1674では
文芸評論家・湯川豊の評論『大岡昇平の時代』から、次のことばが取り上げられてい
ます。
「信じる」ということは、仮定形の上には成
り立たないのではないか。
大岡の小説『野火』の中の、傷病兵として山中を放浪する一等兵が、疲労と飢餓で
意識が朦朧となり、ふと「神」らしき何かに見られていると感じ漏らした独白、「もし
彼が真に、私一人のために」にふれ、湯川が記したことばだそうです。
極限的な状況の中で、一等兵は何を見たと感じたのか?それは精神的な救いを
もたらすものだったのか?
私は幸い、これに類するような過酷な状況に、未だかつて追い込まれたことがない
ので、そのような状況での心理状態は分かりません。
でも状況を別として、「信じる」ということは、仮定形の上では成り立たない、という
ことは、実感として分かる気がします。
何かを信じる時、人はすでにその対象に、身をゆだねているのではないか?そう
でもしないと、信じることは難しいと思います。
例えば信じやすい人と信じにくい人がいます。信じやすい人は相手や対象を簡単に
信用する人、信じにくい人は疑い深かかったり、客観的に物事を判断しようとする人
であったりするでしょう。
でどちらが正しいかというと、それは状況次第、一概には言えないでしょう。思い
切って信じることが良い結果を生むことがあり、信じないことが自分を助けることも
あります。要は信じるべきか、信じざるべきかの、判断基準を持つことが大切で
しょう。
しかしいずれにしても、信じることは相手の懐に飛び込むことだと、私は思います。
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