私が謡、仕舞を習っていた時の先生の師匠であった、故杉浦元三郎師の追善能を
観に行きました。能楽堂で能を観るのは、本当に久しぶりのことです。
故杉浦先生が京都でも有力な観世流の能楽師であったので、その跡を継ぐ豊彦師
が主催するこの追善能も、観世流宗家・観世清和師、京都観世流の名門・片山九
郎右衛門師と、有力者が出演されましたが、この日の演目では何と言っても、豊彦
師がシテをつとめられた能・景清が印象に残りました。
この能のあらすじを簡単に記すると、源平合戦で平家が破れ源氏の世となった後に、
平家の武将であった悪七兵衛景清は、世をはかなみ自ら両眼をえぐって盲目となり、
流された日向で乞食同然の身と成り果てていたところ、その娘・人丸がはるばる訪ね
て来て、父の消息をそうと気付かず変わり果てた本人に尋ねるが、景清は我が身を
恥じて名乗らない。その後里人のとりなしで親子は感動の再会を果たし、娘の頼み
に応じて景清は屋島の合戦での自らの武勇を語り、亡き後の回向を頼んで人丸と
別れる、となります。
この能はシテが体の衰えた盲目の設定となっていて、舞台上に設えられた庵に座し
て最終盤まで身体の動きが少なく、面をつけた顔と上体の最小限の身振り、謡だけ
で複雑な感情を表現することになるので、大変難しい演技が求められます。豊彦師
は見事にこの景清を演じきって、感動的な舞台を現出された、と感じました。
またこの演目を、故元三郎師の子であり、後継者である豊彦師が演じることは、演者
が父に跡を託されたことを示すメッセージであり、息子にとってはその覚悟を余すこと
なく表す、正に相応しい舞台であったと感じられて、深い感銘を受けました。
ただ久しぶりに能を鑑賞して、この演目の中で少し疑問に感じたことは、終盤父と娘
が分かれる場面で、娘が父を振り切って舞台を去るように見えたところで、この曲の
謡本を参照して謡の内容を確認すれば、十分に理解出来ることだとは思いますが、
舞台だけを観ていると、謡の内容は聞き取りにくいところもあるので、そのように感じ
られたところです。
現代の観客に対しては、娘役のツレが舞台を去るまでにもう一度振り返るなど、分か
りやすい演出も、必要なのではないでしょうか。とにかく、久しぶりの能の鑑賞は、私
にとって、大変有意義なものでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿