2015年10月9日金曜日

漱石「門」における、宗助と御米の諦観について

2015年10月9日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第十四回)に、宗助と御米の家庭生活を支配する、諦めの念や、何かを
耐え忍ぶような感情をうかがわせる、次の夫婦の会話の記述があります。

「 「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と
思い切って投げ出してしまう。細君は漸く気が付いて口を噤んでしまう。
そうして二人が黙って向き合っていると、何時の間にか、自分たちは
自分たちの拵えた過去という暗い大きな窖の中に落ちている。
 彼らは自業自得で、彼らの未来を塗抹した。だから歩いている先の方
には、花やかな色彩を認める事が出来ないものと諦めて、ただ二人手を
携えて行く気になった。」

「門」が「それから」の続編的な性格を持った小説と知らない読者にとっては、
のっけから謎に満ちた物語の運びと思うでしょう。他方、あらかじめ了解の
ある私にとっては、宗助の感情に「こころ」の先生との類似性を感じます。

「こころ」から、「それから」、「門」と読み進めて行くと、漱石作品には
過去の過ちから来る罪の意識を重荷として担い続けながら、じっと耐え忍ぶ
主人公が描かれます。

また信頼を寄せる年長者の親族に裏切られるのも、「こころ」、「門」に共通
しています。

漱石の実生活の仔細を私は知りませんが、彼には頼るべき人に裏切られた
という思いがあり、人間不信の感情を常に抱きながら、その上に自らの心の
どうしようもない弱さとも向き合い、それでいて究極的には他者に対して
誠実であり続けようとする、焦げ付くような魂の葛藤があったように感じられ
ます。

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