2015年10月21日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第二十回)に、小六の学資に充てる目的で、亡き叔父に預けてあった
父の遺産の行方を尋ねるために、叔母の下を訪ねた宗助が、最早それが
一文も残っていないことを告げられた事の顛末を、帰宅後御米に報告する、
次の記述があります。
「 「小六の事はどうしたものだろう」と宗助が聞くと、
「そうね」というだけであった。
「 ・・・・・ 」
「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」と御米がすぐいったので、
宗助は苦笑してやめた。
「つまりは己があの時東京へ出られなかったからの事さ」
「そうして東京へ出られた時は、もうそんな事はどうでもよかったん
ですもの」
夫婦はこんな話をしながら、また細い空を庇の下から覗いて見て、
明日の天気を語り合って蚊帳に這入った。」
現代社会の金銭感覚や損得勘定から考えると、随分呑気な話です。
今の物言いからすると、叔母に体よく丸め込まれたことになるでしょう。
ただ、当時の人びとの目上の親族に対する心情や、宗助と御米の夫婦に
なってからの人生の来し方を鑑みて、このような結果も已むおえないと
いう諦念が、二人を納得させているのでしょう。
しかし、このような承服しがたい災難に直面しても、じっと寄り添う彼らの
姿が、何かいじらしくも見えます。
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