2015年9月30日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「門」105年ぶり連載
(第八回)に、五、六日前新聞が報じた伊藤公暗殺事件の感想を、宗助が
御米と小六に語る次の記述があります。
「 御米は、
「そう。でも厭ねえ。殺されちゃ」といった。
「己見たような腰弁は殺されちゃ厭だが、伊藤さん見たような人は、
哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」と宗助が始めて調子づいた口を
利いた。
「あら、何故」
「何故って伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。
ただ死んで御覧、こうは行かないよ」
「なるほどそんなものかも知れないな」と小六は少し感服したよう
だった・・・ 」
この会話には、現代との時代の隔たりを感じます。何故なら、今の社会に
生きる我々なら、国際舞台で渡り合う政治家の突然の悲報を、多分
このように受け止めることはないと、思うからです。
今日と比較してこの時代は、封建社会の終わりからまだ日が浅く、
アジアを取り巻く社会情勢も混沌として、誰か偉人の犠牲の上に日本が
発展して行くという意識が広く共有されていたのだと思います。
私の想像するところ、恐らく第二次大戦への道を歩む過程においても、
このような意識はまだあまねく日本人に浸透し、世論を沸き立たせる要因
にもなったのだろうと、感じます。
敗戦後の長い平和の中で、このような論理への違和感は、持ち続け
なければならないと、この文章を読んで改めて思いました。
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