2015年8月10日月曜日

パトリック・モディアノ著「暗いブティック通り」を読んで

2014年ノーベル文学賞受賞作家の代表作の一つです。ゴングール賞受賞作
でもあります。

最初は単なる記憶喪失の男の自分探しの話と思いましたが、主人公が微かな
手掛かりの断片から試行錯誤を続けながら、ミステリアスな霧に包まれた
自分の過去に分け入って行く展開が、次第に濃密な愛の物語、第二次世界大戦
中のナチス占領下、抑圧されたフランス社会の状況を眼前に浮かび上がらせる、
忌まわしい物語へと移行して行くに連れて、主人公個人の行状を離れて、
普遍的な戦争の時代の市井の人間を描く物語へと昇華して行く。その鮮やかな
手並みにすっかり魅了されました。

まず愛の物語という点から触れると、主人公がその存在を追い求める彼の恋人、
あるいは妻ドニーズは、彼の記憶が戻って来る物語の最終盤に至るまで、その
佇まい、容姿が明らかになりません。しかしそのような中にも、主人公と彼女の
愛情のかたちは濃密な気体となって間違いなく偏在し、実は主人公は物語の
冒頭より、記憶はなくともこの追憶の痕跡に突き動かされていたように感じます。

その思慕の感情描写に、私はパトリス・ルコント監督の映画「髪結いの亭主」の
主人公の憧憬と通じるものを感じました。そういえばルコントは、モディアノ
原作の「イヴォンヌの香り」という映画も撮っています。現代フランス文芸に
特徴的な、一つの愛の表現とも感じられます。

主人公とドニーズを破滅に導いた事件は、作中には一言も触れられませんが、
ナチスのフランス進攻によってもたらされたものでした。しかし事件の顛末も含め、
全ては霧の中。ドニーズの以降の消息も判明せず、主人公の本名でさえ明らかに
なりません。さらには、あの狂気の時代の行く末も、明確には記されていません。

だがカオスのような記憶の断片がうねり、渦巻きながら、やがておぼろげな
かたちとなって立ち現われて来るものがあります。それは公式の記録では語られる
ことのない、個々の人間の生活の記憶が織りなす、集合体としての時代の気分
であり、そのようなかたちで掬い上げられたものこそが、その時代の社会の真実を
的確に指し示しているに違いない。モディアノはこのようなゆるぎない信念を持って、
本書を上梓したと、感じました。

0 件のコメント:

コメントを投稿