2014年9月17日水曜日

漱石「こころ」における、先生の罪の意識と贖罪観

2014年9月17日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(104)に、Kの遺体をとにかく安置し終えた先生の心の働き
について、次の記述があります。

「事件が起こってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時漸やく
悲しい気分に誘われる事が出来たのです。私の胸はその悲しさのために、
どの位寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の
心に、一滴の潤いを与えてくれたものは、その時の悲しさでした。」

「私も今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬ったところで、どの位の功徳に
なるものかとは思いました。けれども私は私の生きている限り、Kの墓の
前に跪まずいて月々私の懺悔を新たにしたかったのです。」

悲しさによって心がくつろぐという感覚が、最初解りませんでした。

先生はそれほどまでに罪の意識にさいなまれ、身を締め付けられて
いたのでしょう。さらには、わが身を守ろうとする本能的な危機感もあった
と思われます。

しかしそのようなこころの状態の中で、親友Kの死に対して悲しみを感じる
ことが出来たということは、自分の人間的な心情の発露にわずかな救いを
見出したということでしょうか?

それでは、あまりにも悲しすぎます。先生が自らに課したKの墓参も、
贖罪のための苦行のように思えてきました。

0 件のコメント:

コメントを投稿