2014年11月15日土曜日

漱石「三四郎」における、広田先生の自然と人間を巡る講釈について

2014年11月14日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
第三十一回に、広田先生が三四郎に自然と人間の関係について語る
次の言葉があります。

「君、不二山を翻訳して見た事がありますか」

「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、
偉大だとか、雄壮だとか」

「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ない
輩には、自然が毫も人格上の感化を与えていない」

最初、広田先生が何を言おうとしているのか、私にはよく分かりません
でした。でも考えてみると、これは当たり前のことです。

人間も所詮、自然の中の一部でしかないのですから、そんな存在が
自然を表現しようとしても、自分たちの存在する世界の思考の範疇から
抜け出すことは出来ないということでしょう。

もしそんなことが出来ると考えるのなら、それは人間の思い上がり
でしょう。当時にはそういう風潮が広がっていたのか、いやともすると
現代に生きる私たちも、人間本位のそんな思考に陥り易いに違い
ありません。そういう意味において広田先生の言葉は人間への警句と
受け取るべきでしょう。

しかし、ー人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩には、自然が
人格上の感化を与えていないーということは、自然に対して不遜に
なる以前の無知を戒めているのでしょうか。広田先生の言葉は、
なかなか奥深いと感じました。

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