2014年11月14日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
第三十一回に、広田先生が三四郎に自然と人間の関係について語る
次の言葉があります。
「君、不二山を翻訳して見た事がありますか」
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、
偉大だとか、雄壮だとか」
「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ない
輩には、自然が毫も人格上の感化を与えていない」
最初、広田先生が何を言おうとしているのか、私にはよく分かりません
でした。でも考えてみると、これは当たり前のことです。
人間も所詮、自然の中の一部でしかないのですから、そんな存在が
自然を表現しようとしても、自分たちの存在する世界の思考の範疇から
抜け出すことは出来ないということでしょう。
もしそんなことが出来ると考えるのなら、それは人間の思い上がり
でしょう。当時にはそういう風潮が広がっていたのか、いやともすると
現代に生きる私たちも、人間本位のそんな思考に陥り易いに違い
ありません。そういう意味において広田先生の言葉は人間への警句と
受け取るべきでしょう。
しかし、ー人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩には、自然が
人格上の感化を与えていないーということは、自然に対して不遜に
なる以前の無知を戒めているのでしょうか。広田先生の言葉は、
なかなか奥深いと感じました。
0 件のコメント:
コメントを投稿