2014年11月27日木曜日

中野重治著「村の家、おじさんの話、歌のわかれ」を読んで

私は今まで、いわゆるプロレタリア文学にあまり興味を持たなかった
ので、中野重治についても、その名を聞いたことがある、というほどの
知識しかありませんでした。ただ中野というと、その経緯は知らなくとも、
転向という言葉がすぐに結び付きます。今回本書を読みたいと思った
のも、その転向というものがどのようなものであったのかを、知りたい
という気持ちが大きく働いています。

本書中の「春さきの風」は、私に当時、主義者と家族が置かれた過酷な
状況を冷徹に示してくれます。公権力の横暴によって、幼い命をいとも
簡単に失うことになった主義者の無垢な赤ん坊に象徴されるように、
主義者の家族は貧しく高潔、対して公権力の手先は狡猾で滑稽に
描かれているのがやや類型的ですが、悲惨さの中に矜持を失わない
主義者の生き様に迫真性があります。

「村の家」は、中野自身がモデルの投獄され転向したプロレタリア作家と
昔気質の父の葛藤を通して、自らの転向の経緯と転向後の心の有り様を
描く作品です。主人公は弾圧に屈せず、思想、信条を保持し続けようとする
思いと、獄中における肉体的な衰え、また家族の置かれた困難な状況に、
苦悶の末転向を決意し、出獄帰省後、頑固な父に責任の取り方としての
絶筆を勧められながら、書き続けることによる責任のまっとうを決意します。

作者の生き、考え、行動する全てのことに、現代社会に生活する
私たちとは比較にならない、責任、重圧があるように感じられます。我々
日本人は、法律上自由と権利を保障され、また本書に描かれた第二次
世界大戦前に比べて、経済的にもずい分豊かになって、肉体的、精神的な
生の実感が希薄になったのかも知れません。反面、脳内の仮想空間での
煩雑さは確実に増しているに違いありませんが、それを私たちは意識と
して感じることは出来ないのでしょう。本書を読んで、そんな取り留めもない
ことを考えさせられました。

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