2014年11月5日水曜日

漱石「三四郎」における、轢死体を見た三四郎の感慨について

2014年11月4日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第二十四回)に、鉄道へ飛び込み自殺をした若い女の無残な轢死体を
目撃した三四郎が、その感慨を述べる次の下りがあります。

「三四郎の眼の前には、ありありと先刻の女の顔が見える。その顔と
「ああああ・・・・・」といった力のない声と、その二つの奥に潜んでおるべき
はずの無残な運命とを、継合わして考えて見ると、人生という丈夫そうな
命の根が、知らぬ間に、ゆるんで、何時でも暗闇へ浮き出して行きそうに
思われる。」

「三四郎はこの時ふと汽車で水蜜桃をくれた男が、危ない危ない、気を
付けないと危ない、といった事を思い出した。危ない危ないといいながら、
あの男はいやに落付いていた。つまい危ない危ないといい得るほどに、
自分は危なくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。
世の中にいて、世の中を傍観している人は此処に面白味があるかも
知れない。」

若い三四郎にとっては、さもショッキングな出来事であったに違い
ありません。人の生のはかなさ、むなしさを感じたのもむべなるかな
と思います。さぞゾッとしたことでしょう。

しかし次の瞬間、彼は件の水蜜桃の男のことを思い出して、このような
おぞましい出来事も第三者の目で傍観できる人間になれれば、
慌てふためくことなく自らの人生を味わうことが出来るのではないかと
かんがえます。

ここには、作者漱石の諧謔を好む性癖が、色濃く反映されているでしょう。
なお、「危ない危ない」など同じ言葉の繰り返しが、文章に独特のリズムを
生み出していることも、見逃せません。

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