2014年10月17日金曜日

漱石「三四郎」における、三四郎の孤独感

2014年10月16日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
三四郎(第十一回)に、三四郎が東京帝国大学の構内の池の端に
しゃがみながら感じる孤独感について、以下の記述があります。

「三四郎が凝として池の面を見詰めていると、大きな木が、幾本となく
水の底に映って、そのまた底に青い空が見える。三四郎はこの時
電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠くかつ遥な心持がした。しかし
しばらくすると、その心持のうちに薄雲のような淋しさが一面に広がって
来た。そうして、野々宮君の穴倉に這入って、たった一人で坐っている
かと思われるほどな寂寞を覚えた。」

三四郎は、今まで感じたことのない寂しさに囚われいます。

まず彼の心に浮かんだ遥かなものへの思いは、科学的探究心に対する
憧れでしょうか?しかし同時に彼は、世間とは離れて学問に没頭する
野々宮君を尊敬しつつも、自分自身は世俗的なものから逃れられない
ことを感じています。

例えば、なまめかしい女性の魅力もその一つです。それら人との関わり、
あるいは人間的なものへの絶ちがたい思いが、寂寥感となって彼に
覆いかぶさって来ているのではないでしょうか?

私自身、高校生の頃、大学生の頃には、一人でいる時、しばしば孤独感に
苛まれていました。自分が世間から孤立しているような感覚に、囚われて
いたのです。

今から振り返ると、この心の状態は、人間が社会的な存在になるための
準備段階の心象風景かもしれません。

三四郎の心も東京へ出て来て一気に、大人の仲間入りをしようとしている
のに違いありません。


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