夏目漱石「こころ」100年ぶり連載、朝日新聞8月18日(月)付け朝刊
先生の遺書(83)に、Kにお嬢さんへの思いをなかなか打ち明け
られない先生のためらいを記する、次の文章があります。
「貴方がたから見て笑止千万な事もその時の私には実際大困難だった
のです。私は旅先でも宅にいた時と同じように卑怯でした。私は終始
機会を捕える気でKを観察していながら、変に高踏的な彼の態度を
どうする事も出来なかったのです。」
「或時はあまりにKの様子が強くて高いので、私はかえって安心した
事もあります。そうして自分の疑いを腹の中で後悔すると共に、同じ
腹の中で、Kに詫びました。詫びながら自分が非常に下等な人間の
ように見えて、急に厭な心持になるのです。」
前回読んだ時には、これらの記述にもずい分じれったさを感じました。
しかし今回改めて読んでいると、ふと、遠い学生時代の自分の体験が
よみがえって来ました。
私は大学生の時に旅先で知り合った、遠方に住む女性と文通を
続けていて、久々に彼女に会いに行くのに、ドライブを兼ねて友人を
同行しました。
実際に会うまでは、そんなことは露ほども考えていなかったのですが、
彼女と彼女の女友達、私と友人の四人で話したり、彼女の地元の名所を
めぐっているうちに、彼女と友人がいい雰囲気に思えて来たのです。
当時私は、彼女に好意を持っていました。しかしその友人にはっきりと
そのことを伝えたわけではありません。でも彼は当然分かっていると
思っていました。
私は彼女に対しても疑心暗鬼になり、彼女に冷たく当たりました。別れる
時にも、彼女の親切に報いる態度を示しませんでした。
以降彼女との関係は終わり、友人に真相を質したわけでもないので、
彼女と友人の間にどんなことがあり、あるいはなかったのか、今でも
分かりません。
優れた文学は、読む人の心のひだに分け入り、忘れてしまった遠い記憶を
呼び覚ますこともあると、改めて感じました。
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