2014年7月25日金曜日

漱石「こころ」における純愛考

7月25日(金)付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(68)に、「もし愛という不可思議なものに両端があって、
その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性慾が動いている
とすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。
私はもとより人間として肉を離れる事の出来ない身体でした。けれども
御嬢さんを見る私の眼や、御嬢さんを考える私の心は、全く肉の
臭いを帯びていませんでした。」という記述があります。

この箇所を読んで、純愛ということについて考えました。

確かに先生の御嬢さんへの恋情は、一見清らかなものに感じられます。
また、恋愛結婚が一般的ではなかった当時、恋愛感情というものは、
ある意味後ろめたいものであったかもしれません。

しかし私たちの現代社会に、このシチュエーションを当てはめてみると
どうでしょうか。私には先生のいわゆる愛の高い極点は、一人よがりの
ものに感じられます。

先生がいくら心の中で御嬢さんを思っていても、肝心の相手にその
思いは伝わっていたでしょうか。私の感じ方では、先生は自分の恋愛に
一方的に酔いしれていないで、少なくともその意思を何らかの方法で
御嬢さんに伝えるべきだったと思います。

その時点で初めて、純愛は成り立つのではないでしょうか。それゆえ
先生の純愛に、私は純愛未満のじれったさを感じました。

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