2019年5月31日金曜日

京都国立近代美術館「藤田嗣治展」を観て

藤田の没後50年を記念する大規模な回顧展です。

過去にも彼の回顧展を観たことがありますが、今展はより各年代を網羅して作品が
集められているように感じます。もともと藤田の絵画が好きで、評伝を読み、伝記映画
を観たことのある私には、彼の画業を通して生涯を跡付ける想いで、この展覧会を
観ることが出来ました。

まず興味深かったのは「Ⅱ はじまりのパリー第一次世界大戦をはさんで」のパートで、
大志を抱きパリに到着した藤田が当時の流行を模倣し、仲間の影響を受けながら、
悪戦苦闘する様子が示されます。

これは同じく西洋絵画の先進地パリを訪れた日本人画家たちが辿る道ですが、藤田が
彼らと違ったのは、西洋から絵画を学ぶだけではなく、日本人として本場で通用する
絵画を生み出そうとしたところにあると、このパートの作品を観て感じます。

その中でも特に目を惹いたのは、彼の出世作と銘打たれた《私の部屋、目覚まし時計
のある静物》で、当時藤田の代名詞であった「乳白色の下地」が当初裸婦によって
注目されたのではなく、このような慎ましやかな主題によってであったことに、彼の涙
ぐましい試行錯誤が見て取れる気がします。

「Ⅳ 乳白色の裸婦の時代」の裸婦の羅列は正に圧巻!「乳白色の下地」を用い、墨
の線で繊細に縁取られた裸婦は日本的かつ魅惑的ですが、決して見逃してはならない
のは、裸婦の体のボリュームはきわめて肉感的で、ムンムンとした色気を放っている
ことです。背景に多用される花柄の装飾模様や純白の布も西洋人趣味で、裸婦たちを
怪しく引き立てます。

つまり藤田の裸婦の画は、東洋的なものと西洋的なものの融合によって生み出された
作品であり、当時新しいもの好きのパリっ子を熱狂させた様子が、目に浮かびます。

《アッツ島玉砕》などの「作戦記録画」については、前にも触れたのでここでは省きます
が、それにしても前半のパリ滞在作に対して晩年のフランスでの宗教画は、藤田らしく
洗練された絵画もあるにはありますが、いかにも寂しく、悲しく感じられます。

戦争協力の罪を問われて祖国を追われ、第二の故郷フランスに永住の地を見出し
ながら、どこか根無し草の寄る辺なさから、キリスト教に救いを求めた姿が透けて
見える気がします。

近代を代表する日本人洋画家藤田嗣治が、その溢れる天分と才気故に、洋の東西に
自身を引き裂かれる運命にあったと感じるのは、私だけでしょうか?

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