2019年5月23日木曜日

取材考記「芸術も風俗も社会も 平成=「フラット化」この先」を読んで

2019年5月13日付け朝日新聞夕刊「取材考記」では、編集委員・大西若人が上記の
題名で、1990年代以降の日本の芸術、風俗、社会の「スーパーフラット化」について
記しています。

この論によると、「スーパーフラット」は、平成前半に唱えられた現代美術家・村上隆
の造語で、古美術から現代美術までを視野に入れ、日本文化に通底する奥行きに
欠ける平面性に注目した考え、ということです。

筆者の大西は、「平成」=「フラットになる」と読み替えられるように、芸術のみならず、
風俗も社会も価値観も、みんなフラット、超平面化したのではないかと問いかけて
います。

この論を読んで私は、私たちが常日頃現代社会に生きる上で感じて来た、何とはなし
の味気無さの正体の読み解き方を、教わったような気がしました。

確かに今の社会は、情報技術や交通手段の発達によって驚くほど便利になり、我々
の知識の範囲や移動可能距離は飛躍的に広がりました。でもだからといって必ずしも、
この個人にとっての拡大した世界が、生身の感触を伴った立体的なものであると、
決して実感出来ないということも、私たちは同時に感じているのではないでしょうか?

つまり世界が拡大するほどに、その手触りはバーチャルで希薄なものと、なって来て
いるのではないか?例えば、品物を購入するという行為も、個性的な個人商店では
なく、スーパーや大型ショッピングモールで購入する場合は、同じような条件で同様の
品質の商品を購入することになりますし、更には、ネットショップで購入するとなると、
全国同一のものを実際に手に取って確かめることもなしに、購入することになります。

買い物の楽しみ方が、随分手軽で便利ではあっても、平板で味気無くなっているよう
に感じます。このような社会のフラット化に対しては、確実にその反動としての実体験
や、手触りの感触を重視する動きも一部には出て来ているように感じます。私は可能
ならば、その動きの本格的な復権を心から願うものです。

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