2017年3月3日金曜日

漱石「吾輩は猫である」における、ヴァイオリンを弾くためにたどり着いた山での心象

2016年3月1日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載207には
寒月がようやく手に入れたヴァイオリンを弾く場所を求めて、人気のない庚申山の
大平という所にたどり着いた時の心象を記する、次の文章があります。

「「・・・こういう場所に人の心を乱すものはただ怖いという感じばかりだから、この
感じさえ引き抜くと、余るところは皎々冽々たる空霊の気だけになる。二十分ほど
茫然としているうちに何だか水晶で造った御殿のなかに、たった一人住んでる
ような気になった。・・・」」

漱石の小説には、今まで読み続けて来ると、時としてとびっきり詩的な心象表現に
出合う場面があります。この描写など、まさにそのようなものだと感じられます。

普段は臆病な寒月君が、苦心惨憺して手に入れたヴァイオリンを試し弾きする
場所を求めて、人気のない山中に分け入る。件の場所を見つけて、さて岩の上に
腰かけた途端、弾きたい一心の焦りから解放され、ようやく目的を遂げることが
出来るという安堵感と共に、辺りの情景を感受する心の余裕も出来て、あたかも
エアーポケットに落ち込んだような心持になる。

まあさしずめこんな心の状態の表現でしょうか?漱石は漢詩や俳句もたしなんだ
だけあって、このような人の心象に分け入る描写にも、他の追随を許さない詩的で
卓越した技巧を駆使することが出来たのでしょう。これも彼の小説の大きな魅力だ
と感じます。

特に「吾輩は猫である」では、全編を漂うユーモラスな雰囲気の中に、時として
美しい隠し味がまぶされているようで、このような文章表現に出合うと、少し心が
浮き立つのを感じます。

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