2017年3月13日月曜日

漱石「吾輩は猫である」における、苦沙弥先生の文明論

2017年3月9日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載212には
苦沙弥先生が自覚心という言葉をキーワードにして、宅に集まる皆に文明論を披歴
する、次の記述があります。

「「・・・文明が進むに従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際がおだやかになる
などと普通いうが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうしておだやかになれる
ものか。なるほどちょっと見ると極しずかで無事なようだが、御互の間は非常に苦しい
のさ。・・・」」

この言葉が発せられる前の論旨から、苦沙弥先生の言う所の自覚心とは、自己を認識
することによっていかに他者より利益を得るか、損をしないかという事ばかりを考えて
いる心の状態を現わしているようです。

確かに漱石の時代には、個人としての自我が芽生えてくるという現象は、資本主義的な
価値観の浸透と相まって、人びとの心に利己的で勘定高い気風を植え付けたのかも
しれません。それ以前の日本の社会では、恐らく一般的には自己という認識は明確では
なく、主従関係、家族関係などの集団の中での構成員としての自分の立場しか、意識
されていなかったでしょうから・・・。

その価値の急激な転換というものは、人びとにかなりの戸惑いや、混乱をもたらしたこと
でしょう。西洋文明が一気に流入しても、その基盤をなすキリスト教的な倫理観は、彼ら
の心に決して浸透していないのですから。

西洋文明に、留学によって直に触れた漱石は、また同時に、日本従来の文化や倫理観
にも理解が深い人物であり、明治時代の進み行きとともに明らかになる、この国の底の
浅さに辟易したのでしょう。この文明論こそ、「吾輩は猫である」の中で、漱石が最も主張
したかったことのようにも、感じます。

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