2019年1月27日日曜日

鷲田清一「折々のことば」1346を読んで

2019年1月15日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1346では
精神科医なだいなだの『常識哲学』から、次のことばが取り上げられています。

  常識はいつか古いものとして代わられる自分
  を意識した寛容な哲学です。

考えてみると、日本のような何につけても横並びが尊重される社会で、世の中に
常識という規範がなければ、随分暮らしにくいと思います。

私たちは常々この社会の常識を尺度として、自分の言動を選択しているのでは
ないでしょうか ?

しかしその結果、皆の直接の行動や事態の収まりどころが、大なり小なりあまり
代わり映えのしないものになってしまって、面白味に欠けるという現象も起こって
来るのでしょう。

でもだからこそ、常識には「偏らない」こと、多くの人々がそれを他の人と「分かち
あっている」こと、が必要なのでしょう。

それはそれでその通りだと思いますが、ただ私が最近の常識に対して懸念する
のは、この頃のそれが簡略化や合理化をする方向に偏り過ぎる傾向にあると、
感じられることです。

確かに今の世の中、何につけてもスピードアップ、無駄を省くことが奨励される
風潮にあります。でも果たしてそれだけが正しいのか?

たとえば最近私が感じたことを例に挙げると、母の葬儀の時に一般の参列の方
からお香典をいただかないことがこの頃の風潮ということで、それはお断りする
ことにしました。

しかしその論理からいうと、それでは気が済まないので、どうしても故人にせめて
花でも手向けたいという方にも辞退を申し上げるのか、という問題が出て来ました。

結論を言うと、私はお供えの花はお受けすることにしました。それが母の遺志
であると解釈したからです。でもこの調子では、将来は全てを辞退するのが常識化
するようにも感じました。

無論簡略化することは簡単です。またそこに至る、時々による各種の事情がある
とも思います。でも基本として、故人の遺志は可能な限り尊重される風潮が残れば、
とも感じました。

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