江戸時代中期に京都で活躍した画家では、伊藤若冲、円山応挙の作品には展覧会
などでよく親しんで来ましたが、池大雅はその名はよく知るものの、まとまった作品を
目にすることがありませんでした。そのため今回の85年ぶりの大規模回顧展には、
期待を持って会場に足を運びました。
先に記したように、私は池大雅の絵画というものに対する漠然としたイメージさえ
持っていなかったので、全体を通して観て大変新鮮でしたが、大まかな印象として、
山、岩の表現に代表されるように形が柔らかく、伸びやかであること、水墨描写が
主で彩色はあくまで控えめ、何ものにも囚われない流動的な気分を醸し出すこと、
が目につきました。
最近人気の若冲に比べて一見インパクトが少なく、訴求力が乏しいように感じられ
ますが、じっくり観ると自身が画中に佇み、登場人物と一緒に風景を愛で、交友を
楽しむ感興が湧いて来て、当時の絵画の王道はこれではないかと思われて来ます。
それほどに、私たちが積み重ねて来た文化の源流の一地点に立ち返らせてくれる
ような趣きを持つ作品でした。
ではなぜこのような感興が催されるのか考えてみると、大雅が中国の書、絵画に
造詣の深い教養人、いわゆる文人であり、体制の思惑を離れて彼ら文人によって
営まれた文化こそが、当時の一つの主流だったからではないかと思われて来ます。
実際に今展の出品作を観ていると、彼はまず書家として頭角を現し、絵画は中国
伝来の手本を通して研鑽を積みます。彼の画にはしばしば讃と呼ばれるその画を
讃える、あるいは注釈する詩文が添えられていますが、彼の画に親しい文人が讃を
寄せ、仲間の画に彼が讃を返すことによって彼らは交友を重ね、互いに影響し、
知識や技量を高め合っていたと思われます。
私が本展を観てもう一点興味深かったのは、大雅の画に讃を添えた人物や書簡の
宛名などに、当代一流の知識人、文化人の名を見つけたことで、文人の親しい交流
が彷彿とされ、和やかな気分に浸ることが出来ました。
晩年の大雅は画境を一段と深めて行きますが、その主要な要因として、彼が生涯
に渡り旅を重ねたことを忘れることは出来ないでしょう。事実、旅先の風景を描いた
優れた作品を多く残しています。
後期の代表作の稀有壮大さ、悠久の時の現出は、旅によって培われたものと切り
離して考えることは出来ないでしょう。
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