2018年9月5日水曜日

京都高島屋7階グランドホール「写真家沢田教一展ーその視線の先に」を観て

私たち及びそれより年上の世代は、ベトナム戦争というと、緊張と不安の入り混じった
形相で、川に身を浸しながら必死で避難する2組のベトナム人の母子を活写した、
カメラマン沢田教一のピュリッツァー賞受賞作「安全への逃避」を、記憶の一つとして
思い浮かべるに違いありません。

しかしその写真は鮮明に焼き付いていながら、沢田の人となりや、まとまった作品は
観たことがなかったので、本展に足を運びました。

まず本展は、彼が写真家を志す過程からを家族提供の記録写真や遺品、そして勿論
彼の写真作品によって辿って行きますが、沢田が写真に係わる人生を実質上スタート
させ、また良き理解者である伴侶を得た場所が、在日米軍の三沢基地の写真店で
あったことに、彼のその後の人生を決定づける運命的なものを感じました。

沢田は裕福な生い立ちではありませんでしたが、写真店に勤務しながらふるさと青森
の原風景や、基地関係者としての特権により米軍施設や軍人家族の写真を撮ること
によって、カメラマンとしての腕を磨いて行きます。

特に厳しい自然環境の中に生を営む青森の漁民や、その家族を優しい眼差しで写し
取った作品には、彼が写真に取り組むスタンスの原点のようなものが感じられて、彼
の作品世界への理解が深まった思いがしました。

東京に出てUPI通信に勤めることになった沢田は、次第にベトナム戦争の戦場撮影
へとのめり込んで行きますが、彼が戦場で有利なポジションで写真を撮影することが
出来たのは、三沢基地時代からのつてで米国系の通信社に勤務していたからという
指摘もあります。

しかし本展で彼の戦闘場面の写真を観ていると、米軍の側から撮影しながらも客観的
なスタンスを保ち、戦争の本質を公平な視点で写し取ろうとする姿勢が感じられます。

このような立場からの写真撮影が許されたのは、当時の米国に戦争を遂行しながらも、
まだ報道に対する公正さや自由が保持されていたからかもしれません。

更に沢田の写真には敵味方の別なく、人間というものへの優しい視点、とりわけ戦争
の一番の犠牲者である名もなき庶民の女性子供への、いとおしさを伴う眼差しがあり
ます。これらの特性ゆえになお、戦争の悲惨さ、愚かしさが鮮やかに浮かび上がるの
です。

最後に戦場を仕事場とした彼の目覚ましい活躍は、彼の妻サタの理解と献身なしには
到底成し得なかったと感じられます。彼の早すぎる死後も彼女の貢献によって、この
ような充実した展覧会が開催されたことを、有難く感じました。

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