2018年6月27日水曜日

赤坂憲雄著「性食考」を読んで

私が本書を手に取ったのは、私自身が還暦を過ぎて最近とみに、私たちの暮らす
現代社会が、死や生という生物である人間が本質的に背負うものを包み隠し、
あるいは、商品化して表面的、形式的に取り扱おうとしていることに、違和感を感じる
ようになって来たからです。そのような社会を覆う雰囲気は、人生も終盤を迎えた
人間に、何とはいえぬ寂しさを感じさせずにはおかないのです。

また本書のタイトルからも察せられる、性と食を結びつける思考というものも、両者が
我々の宿命的な生の営みの中でも、慣習的にネガとポジの役割を果たさせられて
いる行為でありながら、本質的には直結した関係を持つことを明らかにすることに
よって、人間の失われた野性を掘り起こそうとする試みであることに、大きな魅力を
感じたからです。

さて本書は、民俗学者の著者が我が国、世界の神話、民話から最近の科学的研究に
至るまで丹念に目を通して、人間の性と食の本然的な結びつきを明らかにしようと
するものです。

積み重ねられた論考の中で、私の心に残ったのは3点。まず1点は、中村桂子著
「生命誌とは何か」を巡る、生命誕生の歴史の科学的考察から、生物の生死と性の
結びつきを論じる部分で、原始的存在である単細胞生物には死がなく、多細胞生物に
なって初めて死が生まれる。多細胞生物では個体は死を迎えながら、生命を受け
継いで行くために、生殖活動を営むということです。

正に科学的事実から生と死と性の不可分が説明され、それに引き続き著者は、
各地の創世神話の中に、生物進化との関連性を探ります。文明化以前の人類の
本能的な智恵や直感があらわになるようで、スリリングでした。

2点目は、仏教の教化のために、我が国で一時盛んに描かれた「九相図」の生々しさ
について。これは一人の人間が死に、白骨化するまでを克明に描写し、人の世の無常、
凄惨さを示すことによって、煩悩を断つ必要を教えるための図ですが、そのリアルさを
演出するために、かえって、生と死と性の深い結びつきが図上に現出することが、
感慨深く感じました。

最後に死者に切り花を手向ける行為が、植物の生命を絶ち、その生殖器官である花を
死者に差し出すという意味で、供犠の役割を果たすという記述。死者に花を供える
ことの本来の意味が、実感として理解出来た気がしました。

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