2018年6月25日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1148を読んで

2018年6月24日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1148では
評論家渡辺京二の『原発とジャングル』から、次のことばが取り上げられています。
                             
  政治には計算がつきものであるが、つきあいに計算は要らぬ

私は友人があまり多いほうではありませんが、振り返ってみると、小学生時代に
出会った友、中高生時代に巡り合った友、大学生時代に親交を結んだ友が、今でも
付き合いの続く友達になっています。

還暦も過ぎると、小学校時代からの友人は、会えば無条件に童心に帰れる友、話す
うちに気が付けば当時のあだ名で呼び合い、私が私学に進学したこともあって、
小学校卒業後長い期間接点が少なかったので、互いの社会人生活の情報が新鮮で、
話し込むうちに気分がリフレッシュする感覚に囚われます。

中高生時代からの友人は、互いの生活環境も似ていて、社会人になってからも
付き合いがつづき、ある意味腐れ縁的な感じもある友たち。互いの人生の節目にも
関わり、若い頃には遊びが交友の中心でしたが、歳を重ねるうちに、それぞれの
健康上の問題や、社会生活上のトラブルなども起こるようになって、助け合える
ところは助け合い、励ますべきところは励まし合って、さりげなくではありますが、
それぞれの人生にとって欠かせない存在になっているように感じます。

一方大学生時代からの友人は、卒業後各地に散らばり、各々が会社勤め中心の
人生を送り、生活も落ち着き始めてから、青春時代への郷愁も芽生えて、母校の
所在地で同窓会を開くようになり、そこに今なお居住する私も、定期的に会うように
なった友たち。社会人になってから歩んできた人生は、私とはかなり違いますが、
老齢を迎える今後の生き方など共通する話題もあって、集まると話は尽きません。

私は、利害のない友人関係を、これからも大切にして行きたいと思います。

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