2018年5月26日土曜日

鷲田清一「折々のことば」1118を読んで

2018年5月24日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1118では
岩だらけの荒野の中の一か所の小さな泉という〈恵み〉を、自分たちの思いのままに
領有しようとする人々を諫めた、カナダの司祭トム・ハーパーによる寓話『いのちの水』
から、次のことばが取り上げられています。

 それは、巨大な岩で造られた聖堂の礎石の、はるか深い底から聞こえてくる、流水
 のかすかなこだまだった。

小さな泉の近くにはいつしか大聖堂が築かれ、教派が争う中、泉自身も囲い込まれて
しまったといいます。

このような人間の愚行は、しばしば見受けられると感じます。最初は〈恵み〉への感謝
のしるしであったものが、祭り上げられ、対立を生み、特定の集団によって占有されて
しまうことになる。

人々の潜在的な欲望が集積することによって、独占の意志を生み出すということで
しょうか?

人間は一人一人は善意を持ち合わせていても、ひとたび集団化すると集団の利益を
守るために多勢であることを笠に着たり、あるいは、その集団を隠れ蓑にして勝手
気ままな振る舞いに及ぶことが、往々にあるように思います。また集団内の論理を
世間一般の価値観に優先させて、独善的な行為に至ることも見受けられます。

例え何らかの集団に属していても、自分の確固とした価値基準や、しっかりとした善悪
の判断指標は持ち続けるべきだと、上記のことばを読んで感じました。

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