2018年3月9日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1044では
防災アドバイザー山村武彦の『南三陸町 屋上の円陣』から、次のことばが取り上げ
られています。
犠牲になった人と、助かった人の間に明確な理由や共通の法則などありはしない
このことばを読んで、つい運命ということについて、考えさせられました。
震災の犠牲になった人と助かった人の間には、結果としては大きな差があります。
でも二次災害という場合には異論をはさむ余地があるにしても、たまたまその瞬間に
被災現場に居合わせ被災する、被災しないという点においては、結果としての理由は
考えられても、事前に予測できる理由は考えようがないはずです。
ということは、運命と言う以外にはないでしょう。でも親しい間柄の人を面前で失い、
自身は生き残ったという人は、不幸中の幸いとほっとする以前に、ついついなぜ自分
だけ生き残ったのかと、罪悪感に苛まれるそうです。
人は家族や友人、コミュニティーのつながりの中に、相手を思いながら生きる存在
なので、突然にその絆が断ち切られた時、そのような感情に囚われるに違いありま
せん。
その上に生死を分かつ結果の重大さが、残された人をして、自分の非を探すような
思念へと駆り立てずにはおかないのでしょう。
亡くなった人の悲しみと、亡くなった人を思う悲しみ、被災地はそれらが幾重にも積み
重なった大きな悲しみに包まれていたのでしょう。
生き残った人がそこから徐々に癒されるのは、亡くなった人との心の交流が今なお
続いていると感じられることと、運命ということばを信じられるようになることでは
ないかと、上記のことばを読んで感じました。
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