2016年5月21日土曜日

鷲田清一「折々のことば」403を読んで

2016年5月19日朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」403では
批評家ロラン・バルトの次のことばが取り上げられています。

 愛する者たちを語るということは、彼らが生きたのは(そして・・・苦しんだ
 のは)<無駄>ではなかったことを証言することです。

自分がどれだけその人を愛したかということをいくら語っても、それは所詮
自己満足に過ぎないかも知れません。

愛する人を語るということは、相手の立場に立ったなら、結局その人の生が
どれだけ意味があったか、あるいは、その人が自分にどれだけのことを
してくれたか、ということを述懐することになるのではないでしょうか?

私のような市井の者でも、敬愛する今は亡き人を思う時、その人との
関わりを思い、その人から受けた恩恵を思います。また、その人がいかに
素晴らしい人であり、いかに価値ある人生を生きたかを想起したくなり
ます。

人生というものが多くの場合苦難に満ちたものであり、それぞれの生に
物語が隠されている以上、せめて愛するひとに対してはその生を肯定
したい。

そうすることが、自分の生にも意味を見出すことに、つながるのでは
ないでしょうか?はなはだ抽象的ながら、上記のことばに接して、思うままを
記しました。

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