2018年5月9日水曜日

龍池町つくり委員会 52

5月8日に、第70回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

今回も冒頭、恒例の学区内のホテル、宿泊施設の建設問題について、中谷委員長より
報告があり、従来報告されている案件に加え新たに、突抜町のミニホテルの計画の
報告がなされました。これで少なくともすでに8件が施工、計画されていることになり、
当委員会としては引き続き新規計画に対しては、町内会、地権者、事業主の三者協定
締結を強く奨励して行くことになりました。

また、今回初めて京都国際マンガミュージアムのティーズサロンで開催された「歌声喫茶」
は、参加者約60名と盛況で、新しい船出として上々のスタートとなりました。

4月15日に実施された「大原お花見」は、龍池学区民27名、大原住民の方20名、京都
外国語大学関係5名、計52名(内幼児及び児童6名)の参加があり、皆で歌を歌う
催し、昼食懇親会、フェンスの修繕、花を植えるなど、大原学舎の整備作業を行いました。
秋にも大原で同様の催しを計画しています。また大原学舎をもっと有効活用するために、
外大生にも利用をお願いすることになりました。

本年度の「龍池ゆかた祭り」は、どのような形でどの時期に開催するかを、5月10日の
マンガミュージアム、自治連合会、町つくり委員会の協議で、決定することになりました。
当委員会としては、将来の地域活性化のため、「ゆかた祭り」を継続開催して行きたいと
考えています。

秋の外大企画案について南先生より報告があり、町つくり委員会の活動を振り返る
写真展、二条通り界隈での薬祭りにまつわるウォーキング、それにちなみ薬膳茶会を行う
という案が示されました。これから担当の学生さんたちがこの催しの開催に向けて、
下調べ、準備を進めて行くということです。

2018年5月6日日曜日

鷲田清一「折々のことば」1092を読んで

2018年4月27日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1092では
作家・澤地久枝の『琉球布紀行』から、沖縄の伝統的な織物「読谷山花織」の復元を
成し遂げた與那嶺貞に仕事仲間の一人が言った、次のことばが取り上げられています。

 さすが学問の力だねぇ

近代に入り、芸術や個人という概念が西洋から導入されて、無名の職人の創り出す
手作りの工芸品に光が当てられ、その作り手に工芸家という自覚を促す端緒となった
のが「民藝運動」なら、その結果としておのずから、工芸家の仕事にも、作品を生み出す
ために学問的な知識が用いられることが多くなって来たのでしょう。

それまでの職人仕事は、師匠から弟子に口伝、あるいは見よう見まねによって引き継が
れ、学問による体系などなかったはずですが、一度廃れてしまった技術を復元するため
に学問的な取り組みが必要となり、更に進めば工芸の諸分野の大勢が、だんだん学校
で学問として基礎を学ぶものとなって行って、今日に至っていると思われます。

師匠と弟子の、寝食を共にする身体的対話を伴う濃密な関係性が薄れ、代わりに
客観的で個を重視する姿勢が趨勢になって来たということなのでしょうが、このことも
近代化の進行と密接に関わっているように感じられます。

そのように考えて来ると、ものの作り手の職人から工芸家への移り行きは、手仕事の
学問化と轍を一つにしているように思われますが、一方上記のことばが発せられた場面、
與那嶺が実業学校で学んだ知識を応用して幻の織物の復元に成功したという事例は、
基礎学力と手仕事の幸福な出会いを感じさせます。

社会において、若者が生きるすべを身に付ける方法として、ますます高等教育が占める
比重が高まって来ていると感じられる昨今、それ故に基礎学力の重要性、学ぶ意欲を
育む教育の必要性は高まっているのだと、このことばを読んで感じました。

2018年5月4日金曜日

文月悠光「臆病な詩人街へ出る。」を読んで

詩の世界を巡る最近の事情やウエブ上の話題に疎いので、私は文月悠光という詩人
やその詩を全く知りませんでした。この本を知ったのも京都新聞の書評で、そこに
評されているこの詩人が、現代の社会的に活躍している若者に私がイメージしている
姿よりも、遥かにシャイで生真面目であると感じられ、好ましく思ったので、本書を手に
取りました。

とはいえ、読み始めるまでこの詩人の性別も知らず、そもそもウエブに掲載された文章
を書籍化した本を読むのも初めての体験だったので、正直少し戸惑いながらページ
を繰り始めました。

しかし読み始めてまず感じたのはある意味での懐かしさ、早熟の天才詩人、しかも
うら若い女性と、むくつけき初老の男の自分を比較するのはおこがましく、気恥ずか
しいのですが、人見知りで消極的、何事においても周囲の人に依存し勝ちであった
若い頃の私の心情と、彼女のそれとに共通するものを見る思いがしたのです。

もっとも、彼女は逆境にもくじけない詩人としての才能と矜持を有し、当時の私は情け
なくも、そういうものを何一つ持ち合わせていなかったのですが・・・。

そういう訳で、俄然親近感を持って読み進めることになりましたが、彼女が初体験の
様々なことにチャレンジした心境を告白する本書は、くしくも読みながら私の若かりし
日の苦い思い出を、心に去来させることにもなったのです。

さて共通項もあると私が勝手にシンパシーを抱いている彼女の境涯の中でも、私には
全くあり得なかった深刻な悩みが、この本(元の連載)が生まれる契機となっています。

それはかつて彼女が女子高生詩人として華々しいデビューを飾り、大学進学後も才能
をもてはやされる内に、その流れに身を任せるように詩人の仕事で生計を立てる
社会人になってから、自らの立場の限界を感じて途方に暮れる部分です。

一躍社会的な脚光を浴びて、無我夢中で世間から求められる役割を演じながら、突然
自らの立ち位置が分からなくなる戸惑いは、到底私などの想像の及ぶところでは
ありませんが、健気にも彼女は、それまで詩作に専念して来たことによって欠落して
いた社会体験に果敢に挑戦し、その結果として自らの性格上の欠点に気づき、自らに
課された詩人としての役割、人に訴えかける詩の力を再認識します。

私自身の若い頃の悩みと比較しても、彼女は弱冠その若さで、遥かな精神的財産を
手に入れたと、感じました。

詩人文月悠光のこれからの活躍を、自然に応援したくなりました。

2018年5月2日水曜日

京都国際写真祭、リウ・ボーリンと宮崎いず美の写真展を観て

今回は同写真祭の企画の内、祇園の大和大路界隈の二つの写真展を観て来ました。

まずリウ・ボーリンの展覧会は、「Liu Bolin x Ruinart」と題し、世界最古のシャンパー
ニュ・メゾンとコラボレートして、同メゾンと彼らが作り出すシャンパーニュの魅力を、
ボーリン独自の手法で写し取っています。

私が彼の写真作品を観るのは恐らく今回が初めてですが、最初に驚かされたのはその
独特の制作方法で、つまり彼が主題を表現するために選んだ風景、場所などの前景に、
その風景、場所に溶け込むように全身にペインティングを施した写真家自身、あるいは
縁の人物を佇ませて、まるで場と人間が渾然一体となったような写真を撮ることです。

そのような手法の写真で、彼がルナールという魅力的な対象から浮かび上がらせた
のは、ブドウの栽培から始まる自然との共生、歴史と風格をたたえるメゾンの現場
から立ちあがって来る、スタッフのワイン造りへのひたむきさ、品格、矜持などであると、
感じました。

実際に撮影に使われたペインティングされた衣装の展示、撮影風景を記録する映像
の上映なども、彼の作品制作の過程が体感出来て、より写真作品への理解が深まると
感じました。

会場屋上の、ルナールのシャンパーニュを手軽に味わえるコーナーはまず、鴨川周辺
を見下ろせるロケーションが素晴らしく、私はワインは注文しませんでしたが、かなりの
誘惑に駆られました。

次に訪れたのは、「UP to ME」と題する宮崎いず美の写真展。そんなに広いスペース
ではありませんが、モダンなビル一棟を写真とインスタレーションで埋めています。

彼女の作品を観るのも初めてですが、宮崎自らが演じる幼さの残るおかっぱ頭の
無表情の女性(女の子)が、奇抜でユニークな設定の合成写真の中で、悪戯っぽく、
大胆、あるいは少しとぼけた仕草でポーズを取る、正に宮崎ワールド全開の楽しい
展覧会です。

作品の観せ方も趣向を凝らし、特にインスタレーション作品の、観る者自身が身を
かがめて、設置された穴から上部に顔を覗かせると、そこは青一色の空間で、雲を
思わせる飾り物も設えられていて、まるで空に浮かんでいるような感覚を味わえる
作品は、彼女の世界観を実際に体感するような趣きがありました。

更には、その穴を覗き込んだ観客の首から下の身体が、その作品を少し離れた場所
から観ている観客の鑑賞対象になっているという入り組んだ複雑さも、独特の感興を
呼び起こしてくれました。

2018年4月30日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1090を読んで

2018年4月25日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1090では
音楽家大友良英と大学病院医師稲葉俊郎の対話『見えないものに、耳をすます』から、
稲葉の次のことばが取り上げられています。

 電車が人身事故で止まった時、車内で誰かが舌打ちしたりする光景が、すごく怖い
 んです。

私は電車通勤をしていないので、この状況が実感としては分かりません。ただし以前
日頃時間に正確な私たちの店の従業員が、始業時間に遅れた理由として人身事故に
よる通勤列車の遅延を上げた時に、亡くなった人に対して、何かいたたまれない思い
が心をかすめたことは、記憶しています。

むしろ上記のことばから私がすぐに思い浮かべたのは、ある時仕事の関係者の死去の
知らせが届いて、とっさに、通夜か葬儀に行くための自分のスケジュール調整を、真っ
先に考えてしまったことです。

勿論、少し時間が経過すれば、亡くなった方の人となりや、仕事での関わりが次第に
思い出されて来て、心からその人の死を悼む悲しい気持ちも生まれて来たのですが、
それ以前に、即物的なスケジュールという自己都合のことに、思いを巡らしてしまった
ことを、我ながら申し訳なく感じたのでした。

私たちは日々時間に追われ、心を急き立てられて、感情さえ細分にして、日常をやり
過ごしているのかも知れません。その様子はあたかも、心に蓋をかぶせたとでもいう
ように、無表情で先を急ぐ無言の人の列を想起させるかも知れません。

忙しさの中にもしばし立ち止まり、自分の心の中を覗き込むことが出来る余裕が欲しい
ものだと、このことばを読んで改めて感じました。

2018年4月28日土曜日

京都国立近代美術館「岡本神草の時代展」を観て

神草の舞妓の絵は、一目見ると強烈な印象を残します。官能的でミステリアス、退廃的で
叙情的・・・。若くして死を迎えたこともあって現存する作品は少なく、半ば伝説的な存在
でもありますが、その回顧展が開かれるということで、期待を持って会場に向かいました。

会場に入ってすぐの初期の作品には、初々しさと同時に生真面目さが滲み、この絵が
どうして後年のあの舞妓に発展するのか、不思議な気分がします。彼の以降の心境の
変遷を覗いて見たいような欲求がふくらみ、益々期待が高まりました。

また「お貞子ちゃん写生」のような愛くるしい小型犬を描いた墨彩の作品もあり、彼の
人柄を彷彿とさせます。

それから私の目を引いたのは、竹久夢二の模写が数点あったことです。夢二は当時、
絶大な人気を誇る流行画家であったということはよく聞きますが、また一方、テレビの
美術番組のインタビューで、日展系の日本画の大家が「彼は日本画家ではない」と語る
のを、聞いたことがあります。

そのことからも、神草が模写を試みるほどに夢二の影響を受けた事実に、時代の空気
のようなものを感じました。

彼のよく知られた作品「口紅」は、さすがに艶やかで絢爛豪華。今回観るとなまめかしさと
同時に、きゃしゃで頼りなげな様子も感じられましたが、逆に同時に展示されている草稿
からは、舞妓の姿態の構図を描き出す力強い線が見られて、彼の絵の技量の確かな
基底を感じました。

彼の作品の中でも最も謎めくのは、「拳を打てる三人の舞妓」、第3回国画創作協会展の
ために制作されながら完成が間に合わず、中央の舞妓だけ切り取り出品されたと言い
ます。60年以上の時を隔てて残りの部分が見つかり、随分話題になりました。

本展では部分草稿、草稿断片、習作、最近発見された未完作を並べて、この作品に
取り組んだ当時の神草の息づかいを明らかにしようとしています。この一連の彼の苦闘
の跡を眺めると、この画家が自分の納得のいく作品を完成するために、とことんまで
突き詰めた執念のようなものを感じ、厳然とした気分になりました。

本展では、神草が美人画に最も特色を現した大正時代の同時期に、彼と競うように活躍
した画家たちの同様の作品も展示されていますが、全体を観終えると、この時期画家
たちが時代を覆う一種熱病のような空気に冒されて、居ても立っても居られず、このような
異様な女性を描く衝動に突き動かされたように思えて来ます。

これほどある時代の気分を活写した美術展も、希でしょう。
                                     (2017年11月12日記)

2018年4月25日水曜日

京都新聞ビル印刷工場跡「ローレン・グリーンフィールド GENERATION WEALTH」を観て

今回は「京都国際写真祭2018」の催しの中から、京都新聞ビル印刷工場跡(B1F)の
「ローレン・グリーンフィールド GENERATION WEALTH」を観て来ました。

まず、京都新聞ビルは私の住まいのすぐ近くで、いつも前を通っているのですが、
その地下に印刷工場があったなんて全く知りませんでした。この度初めて地下に
下りて、その空間が醸し出す独特の雰囲気に魅力を感じました。

印刷工場跡は、地階いっぱいに広がる大きなスペースで、印刷機械は既に撤去
されていますが、かつてそこがどのような用途で使われていたかがすぐに想像される
ような、壁面は黒ずみ、インクの臭いが染みついて、装飾的なものは一切なく、しかし
廃墟というにはまだ、人々がそこで労働した温もりが微かに残っている、都市的で
ありながら、ノスタルジーを誘う場所でした。

さてグリーンフィールドは、アメリカに象徴される高度な消費文明の中で、富や名声に
翻弄される人々を写真や映像作品として提示することによって、社会の実相を明らか
にしようとする作家で、今展でも「GENERATION WEALTH」と題して、欲望にまみれた
人々の生態や愚行を赤裸々に活写しています。

展示方法も、上記工場跡の広い空間の中央部分を縦に貫くように並べられた、透明の
壁面に設置された大きな写真作品が、背後からの照明によってほの暗い空間の中から
次から次へと浮かび上がるような演出がなされていて、鑑賞者は作品を観ながら
知らず知らずの内に、彼女独自の作品世界に迷い込んでしまいそうな感覚に囚われ
ます。

この展覧会が語り掛けて来るものは余りにも多岐にわたり、一言で感想を言い表す
ことは出来ませんが、本来人間を豊かにすることが目的であったはずの資本主義が、
経済成長というその手段を振りかざして、人々を欲望の虜にし、結果として社会や一人
一人の心を阻害している姿が、端的に表現されていると感じました。

お前たちそろそろ目覚めよ!と、本展は語り掛けて来ると、感じました。