2019年10月30日水曜日

鷲田清一「折々のことば」1619を読んで

2019年10月24日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1619では
20世紀フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの『存在するとは別の仕方で ある
いは本質としての存在の彼方へ』から、次のことばが取り上げられています。

  〈自己に反して〉ということが、生きること
  そのものとしての生には印されている。

この言葉が意味するのは、要するに人生はままならぬ、ということではないでしょうか?

人生は順調に行っているように思われる時に限って、意外なところから、つまずきが
生まれるものです。それも、突然、唐突に。

また、自分という存在は、得てして自分自身が想定したり、思い込んでいる姿とは、
多分にずれているものですし、ましてや、これから自分がどんな人生を歩んで行くか
を予想しようとしても、実際にはその通りにならないことが、大半でしょう。

それは私たちが、自分の全てを把握しようとしても、到底かなわないのと同様に、いや
それにも増して、我々を含む人間という存在が、広大な自然現象のほんのちっぽけな
芥子粒のようなものであるということを、意味しているのに違いありません。

それゆえ私たちは、人生の中で様々な出来事に翻弄され、自分に期待をしては裏切ら
れ、喜怒哀楽を繰り返しながら、長いようで短い一生を駆け抜けるのに違いありません。

従って、自分の不運を嘆くこともあるでしょうし、能力のなさに絶望することもあるでしょ
う。

でも結局、それに耐えるしか生きる方法はないのですし、最悪の事態も永遠に続く訳
ではなく、ものの見方、心の持ち方を変えれば、新たな希望が発見出来る場合もあり
ます。

私は少なくともそう信じて、終盤に差し掛かる人生を、前向きに進んで行きたいと、考え
ています。

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