探検家・角幡唯介のノンフィクション作品は、以前にも『空白の五マイル』を読んだこと
がありますが、交通手段、情報網、科学技術が著しく発達した現代の地球環境にあっ
て、わずかに残された秘境や人間の進入を拒む厳しい自然条件の地に、少ない装備
で、しかも単独で果敢に挑み、読む者を心躍らせるところがあります。
今回の探検は、極夜と呼ばれる太陽が昇らない冬の北極を犬一頭と旅する単独行と
いうことで、いやが上にも期待が膨らみました。
さて読み進めて行くと、眼前に広がるのは薄闇に覆われた一面白一色の世界です。
その中でも気象条件は激しく変転し、探検家を翻弄します。また、寒さと共に容易に
は手に入らない食料の確保も切実な問題で、一つ間違えれば凍死、餓死に直結しま
す。
正に死と背中合わせの危険な旅ですが、もし単に行動の記述だけなら、悲しいかな
読者にとっては、延々と続く氷上の道行きという単調な印象を拭えないかも知れませ
ん。そこで本書の最大の魅力であり、著者がこの旅の本質を読者に正確に伝える助
けとなっているのは、彼の行動と思索を並行して記述した部分です。
彼は極夜の中の月の光によって自分が進むべき方向や、行動の決断を誤らせられた
ことから、この時の月光を自らがかつて騙された飲み屋の女に例えます。その比喩
は、彼我の根本的な落差から一見荒唐無稽に思われますが、人工的なものに塗り固
められた現代社会に生きる人間が、むき出しの自然に直面して戸惑う様子を、実にう
まく表現しているのではないかと感じられます。
同様に常に行動を共にしながら、酷寒と食料不足の状況で、飼い主である探検家の
人糞をうまそうに食う犬ーその想い余って主人の肛門をなめようとする描写には、思わ
ず噴き出してしまいましたがーあるいはいよいよ食料が尽きそうになって、彼が餓死
した犬の死肉を食べて自分が生き延びることを想定する部分では、人間と犬の原初的
な出合いの姿が彷彿とされて、同時に冬の北極圏の自然環境の厳しさが、浮かび上が
って来ました。
更には、著者が極夜の終わりに太陽が初めて顔を出す様子を見ることを、今回の旅の
最終目的とした理由を自問して、新生児が正に生まれ出る瞬間に見る光に答えを見出
した記述には、地球における太陽の無限の恩恵を活写していると感じました。
本書は、常人が一生経験することのない冒険を扱いながら、全ての何かに挑戦しようと
する人に勇気を与えてくれる書であると、私は思います。
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