2019年7月5日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1497を読んで

2019年6月20日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1497では
作家・片岡義男の短編小説「この珈琲は小説になるか」から、次のことばが取り上げ
られています。

  きっとね。俺たちは呑気なんだよ。人を呑気
  にはさせない世のなかに逆らって生きている

確かに、やれ効率化、利益第一主義、グローバル化、スピードアップと、世の中は
ますます私たちを急き立てます。そのような掛け声に振り回されていると、つい愚痴
の一つもこぼしたくなって来るでしょう。

片岡は若くエネルギッシュなアメリカ文化の紹介者として、ダンディーであり、タフで
なければならず、また同時に作家として、喧騒に満ちた世間を冷めた目で眺める、
傍観者であらねばならなかったのでしょう。

上記のことばは彼のそんな生き方を、含羞や照れを含みながら、端的に表している
と感じられます。

翻って私も、彼とは立場が違いますし、比較して論じるのはおこがましいと承知の上
で敢えて述べると、ますます加速度を増すこの国の生活習慣の変化から、取り残され
つつある産業に従事して、四苦八苦しているところが、世間から見ると、随分呑気に
見えるかもしれません。

こちらは傍観者などではなく、自分では呑気と決して考えていませんが、和装という
扱う商品の性格上からも、先端技術や情報化社会などとある意味一線を画し、旧態
依然の方法で商売をしているので、それこそ忘れ去られつつある業界かも知れま
せん。

しかし、この国の伝統文化を決して廃れさせたくないという想いは、しっかりと持って
いるので、逆境にひるむことなく、ある部分呑気で図太くありたいと考えています。

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